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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

My conscience does not allow me simply to throw the responsibility simply on minor people... A thousand years will pass and still Germany's guilt will not have been erased.
私の良心は責任を少しの人々に押し付けることを許しません。これから千年の間ドイツの罪は消えないでしょう。
(名前を呼ばれるのを静かに持ち、最期の言葉を聞かれて)
I am thankful for the kind treatment during my captivity and I ask God to accept me with mercy.
拘留中、私に与えられました好意ある全ての取り扱いに感謝いたします。神よ。願わくば、私を慈悲深く迎えて下さらんことを!

ハンス・フランクの最期の言葉。ハンス・ミヒャエル・フランク(1900年5月23日 - 1946年10月16日)はドイツの法律家、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党司法全国指導者。バイエルン州法相、ポーランド総督を歴任した。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑された。ドイツ帝国領邦バーデン大公国の都市カールスルーエの中流カトリック教徒の家庭に生まれる。バイエルン王国首都ミュンヘンの小学校とギムナジウムを出た後、1916年から1年ほどオーストリア=ハンガリー帝国のプラハの学校で学んだ。第一次世界大戦最後の年1918年にバイエルン王国軍に入隊したが、前線には出ておらず、ミュンヘンに駐在していた。大戦末期、クルト・アイスナーらによるバイエルン革命があり、バイエルン共和国が樹立された。さらに1919年にはエルンスト・トラーら共産主義者による革命が起こされ、バイエルン・レーテ共和国が樹立された。フランクはフランツ・フォン・エップ率いるエップ義勇軍に参加して、レーテ共和国打倒に参加した。レーテ共和国にはソ連から多くのユダヤ人赤化工作員が送り込まれていたため、フランクは反ユダヤ主義思想に正当性を感じるようになったという。1919年9月から10月頃、ドイツ労働者党党首アントン・ドレクスラーの知遇を得、彼からアドルフ・ヒトラーの演説会に出席することを薦められ、はじめてヒトラーの演説を聞いたという。しかしこの時のヒトラーは疲れ果てた感じで、フランクはあまりいい印象を受けなかったという。しかしドイツ労働者党に入党している。彼は戦後ミュンヘン大学に入学して法学を学んでいたが、のちにキールのキール大学へ移った。1923年夏に一時キールからミュンヘンへ戻った頃にはナチ党がバイエルン州の一大勢力になっていた。フランクは1923年9月に突撃隊に入隊している。さらに1923年11月のミュンヘン一揆にも参加した。一揆は失敗し、ヒトラーは逮捕された。しかしフランクは逮捕されていない。フランクはこの後ミュンヘンの裁判所で行われたヒトラーの裁判で弁護士を務めている。1930年の国会議員選挙でナチ党から出馬して国会議員に当選。当時30歳で最年少国会議員の一人だった。ナチ党政権掌握後の1933年にバイエルン州法相に任じられた。法務担当国家弁務官、ドイツ法律アカデミー総裁なども兼務した。1934年にはヒトラー内閣の無任所相に任じられた。ポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦するとフランクは中尉としてドイツ陸軍に入隊している。ポーランドを占領した後、1939年10月10日にヒトラーはフランクをポーランド総督に任命した。フランクはそのポーランド総督府領の統治を任されたわけであるが、一部の権限は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと共有しなければならなかった。ポーランド人を支配するためには親衛隊の持つゲシュタポや強制収容所など弾圧的装置は必要不可欠だった。フランクはクラクフのヴァーヴェル城に入り、そこからポーランド総督府領の統治にあたった。しかしフランクはポーランドを「ヴァンダル(蛮地)」と呼んで軽蔑しきっていた。ポーランドは単なる奴隷労働力供給地であると考えており、そのような土地に知識人や美術品など不要であると考えていた。ポーランド人知識人は親衛隊により抹殺され、ポーランドの貴重な美術品はフランクの城に接収され私物化された。徴収したポーランド人労働者は労働力配置総監フリッツ・ザウケルのもとへ、ユダヤ人はヒムラーのもとへそれぞれ送りだした。ほとんどのユダヤ人がアウシュヴィッツ強制収容所へ送られることになるのを彼は知っていた。他のナチ党幹部の例にもれず、戦況の悪化とともに趣味の世界へ引きこもるようになった。彼はピアノを弾いたり、「コロンブスに仕えた給仕」という題の小説を書いたりして現実から逃避していた。1945年1月、ソ連軍がポーランドに迫ってくると彼はレンブラント、ダ・ヴィンチ、ルーベンスなどの美術品を持って専用列車で脱出する。1945年5月4日、バイエルンでアメリカ軍によって逮捕され、ミーズバッハの刑務所に送られたが、アメリカ軍第7軍第36歩兵部隊に所属する兵士達にリンチにあった(刑務所の入り口に入ろうとする彼を2列に並んだアメリカ兵が暴行を加え、倒れると無理やり立たせて先に進ませ、また暴行する)。このアメリカ兵たちはダッハウ強制収容所を通過してきた兵士たちでフランクが「クラコウのユダヤ人虐殺者」と呼ばれているのを聞き、義憤に駆られて行った暴行だった。ニュルンベルク裁判においては、「自分の恐るべき罪」を認め、自分に不利な証拠(ポーランド総督当時の執務日記)を法廷に提供し、法廷を「神意に基づく世界の法廷」と称え「ヒトラーの罪、ドイツの罪」と主張した。一方で「自分は絶えず孤立している無力者」で「行ったことに影響力はなかった」、「親衛隊を抑えようとしていた」などという抗弁も使っていた。最後には事実捻じ曲げて数千人の人々が自分のおかげで命をすくわれたなどと言いだした。その後、個別に言い渡される量刑の判決に移り、フランクは夢遊病患者のようにフラフラしながら入って来て被告席にどさりと腰かけた。彼の受けた判決は絞首刑だった。絞首刑判決を聞いたフランクは神に祈るような仕草をしている。フランクは死刑判決に不満を抱いてはいなかった。助命嘆願書も提出することを望まなかった。

フランクはナチスのポーランド統治の責任者でしたが、そのやり方はとてつもなく酷いものでした。そのやり口はほとんど専制君主同然で、党の会計士フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツは彼のことを「フランク国王」と呼び、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス「フランクは統治(regieren)しているのではない、君臨(herrschen)している」と揶揄したほどでした。フランクが総統となったポーランド総督府は、純粋にドイツの統治機関で、ポーランド人から構成される傀儡政権ではありませんでした。ドイツ支配下のヨーロッパに新たなポーランド人州を作ろうとするものではなく、ヒトラーは、「ここを15~20年で完全なドイツ人居住地にする」と決定していました。ヒトラーは、「4~5百万人のドイツ人に対して、1千2百万人ものポーランド人がいる。ポーランド総督府領はラインラントと同じくドイツ人のものになるべきだ」と述べています。1939年秋、ドイツに併合された旧ポーランド領からポーランド人がポーランド総督府領に強制移住させられ、ポーランド人にとって巨大な強制収容所の様なものとなりました。ポーランド人の男女はドイツ第三帝国の工場や農場で強制労働を強いられました。1987年にフランクの息子ニクラスは、長年の調査や回想に基づいて父親の生涯を綴った評伝『Der Vater (父)』を出版しましたが、この本は父親がポーランドで行った犯罪行為を赤裸々に描いており話題となりました。ニュルンベルク裁判において罪を認めたのはシュペーアとフランクの二人だけでしたが、これだけのことをしてしまった後では、後悔しても遅すぎました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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