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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Da jitt et nix zo kriesche!

泣くことなど何も無い!

コンラート・アデナウアーの最期の言葉。コンラート・アデナウアー(1876年1月5日 - 1967年4月19日)は、ドイツの政治家。西ドイツの初代連邦首相を1949年から1963年に渡って務めた。また1951年から1955年には外相を兼任した。戦前はドイツ中央党に属し、戦後はキリスト教民主同盟 (CDU) の初代党首。父はケルンの控訴審裁判所の書記官ヨハン・コンラート・アデナウアー、母はヘレーネ。5人兄弟の3番目として生まれた。教派はカトリックである。中央党の政治家として1917年から1933年までケルン市長。就任当時は41歳と、ドイツの大都市では最も若い市長だった。ケルン市長としては、戦後の混乱期に食糧確保に意を砕いたり、古い城壁を取り払って緑地帯にし、ケルン大学を再建、フォードやシトロエンなど外国企業を誘致し、メッセやドイツ最初のアウトバーンを建設してケルンをドイツ一の産業都市として振興したなどの功績がある。彼はナチ党の台頭を苦々しく思っており、1931年にその支持者が勝手に橋に党旗を掲げた時は撤去させた。しかし1933年にナチスは政権を掌握。その年アデナウアーはケルンを訪問したヒトラーとの握手を拒否したため、ケルン市長とプロイセン枢密院議長の座を追われた。翌年ヒトラーが反対派を粛清した「長いナイフの夜」の直後には2日間拘留された。アデナウアーは引退して年金生活に追い込まれたが、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件の直後にも、かつて彼が作ったメッセの跡地に置かれた強制収容所に入れられた。病気を理由に病院へ移され、そこから脱走して再び逮捕されるも、11月に釈放された。第二次世界大戦後、進駐したアメリカ軍はアデナウアーを再びケルン市長に任命したが、代わって進駐したイギリス軍により食糧供給の不備を理由に更迭された。さらには占領軍に禁止されていた政党活動の咎で、再び引退生活に追い込まれる。これはアデナウアーがフランスと組んでラインラントに独立国を作るのを防ぐ目的があったという。引退中もアデナウアーはドイツキリスト教民主同盟 (CDU) の設立に尽力する。アデナウアーが戦前所属した中央党はカトリック政党であったが、戦後、プロテスタントとともにキリスト教に基づいた政治を目指し、キリスト教民主同盟として生まれ変わり、その創設者のひとりとなった。西ドイツ(西側連合国占領地)で行われた1949年8月の第一回ドイツ連邦議会選挙に出馬し当選、CDU の連邦幹事長となり、9月15日の議会での投票でドイツ社会民主党 (SPD) 候補のクルト・シューマッハーに1票差で競り勝って初代連邦首相に選出され、翌日初代連邦大統領テオドール・ホイスにより正式に任命された。当時はまだ西ドイツに防衛・外交の自主権はなく、連合国が管掌していた。同年西ドイツの首都がフランクフルト・アム・マインでなくボンになったことに、アデナウアーは大きく影響を与えている。1950年には CDU が全国組織として発足し、アデナウアーは初代党首に就任する。アデナウアーは1953年、1957年、1961年の連邦議会選挙を勝ち抜き、14年に渡って連邦首相を務めることになった。1951年に西ドイツの外交主権が回復されると、外務大臣を兼任したアデナウアーはフランスをはじめとする旧連合国との和解に強力な指導力を発揮し、1955年5月5日に連合国とパリ条約を締結して主権を正式に回復、1963年ドイツとフランスは仏独協力条約(エリゼ条約)に調印した。この条約にはフランス大統領シャルル・ド・ゴールとの個人的友好関係が大きく寄与したといわれる。経済的にもマーシャル・プランを基に経済復興を進め、欧州石炭鉄鋼共同体、欧州経済共同体、欧州原子力共同体に加盟。この外交関係は現在の欧州連合へと発展していく。1954年には、ヨーロッパの理念と平和に貢献した人を称えるカール大帝賞をアーヘン市から受賞した。アデナウアー政権下で西ドイツは再軍備を許され、北大西洋条約機構 (NATO) に加入した。1955年にはイスラエルとルクセンブルク協定を結び、ホロコースト生存者に対して1人当たり3000マルク、総計34億5000万マルクを支払った。1960年にはニューヨークのウォルドルフ=アストリアホテルでベン=グリオンと初会談し、巨額の借款を実現した。さらに、1966年にはドイツの重鎮政治家として初めてイスラエルを訪問している。ただしニュルンベルク法制定に関わった人物(ハンス・グロプケ)を激しい批判にも関わらず連邦首相府長官として重用し続けるなど、その姿勢は批判を受けた。1967年4月19日午後1時21分、インフルエンザに心臓発作を併発したアデナウアーは自宅で死去した。故郷のケルン大聖堂で国葬が行われ、その棺はドイツ連邦軍の高速艇でライン河を運ばれ、自宅近くの墓地に埋葬された。

アデナウアーは第二次世界大戦後の、西ドイツの復興を行った人です。2003年11月、ZDFの番組「偉大なドイツ人」の視聴者投票で、アデナウアーは「ドイツの歴史を通じて最も偉大な人物」に選ばれました。ケルン・ボン空港にはアデナウアーの名が冠されており、またドイツの各都市では例外なくアデナウアーの名を冠した大通りや橋、建築物があります。その名を冠した財団や、ドイツ製の高級車として知られるメルセデス・ベンツにも、アデナウアーの名を愛称に持つモデルがあるほどに、ドイツではその評価の高い人物です。かれは欧州連合の創立に影響を与えた人物でもあり、2002年に鋳造された欧州統合記念硬貨にはロベール·シューマン、ポール·アンリ·スパークと共にその肖像が刻まれています。アデナウアーは親日的な人でもあり、経済再建の目標として日本の教育勅語のドイツ語訳を執務室の壁に掲げていたそうです。戦前はナチスに反対し、戦後はドイツを復興させたアデナウアーの業績は、これからも評価され続けていくことでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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