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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも

中野竹子の辞世の句。中野 竹子(嘉永3年(1850年)または弘化4年(1847年)? - 慶応4年8月25日(1868年10月10日)))は、幕末の女性。会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女として江戸で生まれた。聡明で学問に長じ、また薙刀術の名手であった。戊辰戦争が始まると会津若松城下に戻り、学問や薙刀を教える。官軍が城下に侵攻した際、母・こう子らと共に娘子軍を結成し奮戦したが被弾。首級を敵に与えることを潔しとせず、母の介錯により果てた。首級は農兵の手により法界寺に埋葬された。享年18。

中野竹子は会津戦争において、わずか18歳で戦死した女性です。会津戦争は会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いです。主戦場となったのは現在の福島県あたりです。慶応4年8月21日(1868年10月6日)に、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破ると、40キロ余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入しました。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れ、会津藩は若松城に篭城して抵抗ました。佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けましたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次ぎ、孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏しました。彼女は藩主・松平容保の義姉である照姫に武道の指南をしていた赤岡大助に薙刀を、藩内の書の大家であった佐藤得所に書道を習いました。薙刀の腕前は道場の師範代を勤めるほどで、書道の方も備中庭瀬藩主・板倉侯夫人の祐筆を勤めており、非常な才女でした。彼女の最期は会津若松北西部柳橋(涙橋)のたもとで長州と大垣藩の兵と、上記の辞世の句を詠んだ短冊を薙刀に結び付けて戦い亡くなりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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