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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I'll finally get to see Marilyn.

最後にマリリンに会うだろう。

ジョー・ディマジオの最期の言葉。ジョセフ・ポール・ディマジオ(1914年11月25日 - 1999年3月8日)は、MLBの元選手(外野手)。ニックネームはヤンキー・クリッパー(Yankee Clipper)及びジョルティン・ジョー(Joltin' Joe)。カリフォルニア州マーティネズ出身。84歳没。ベーブ・ルースの引退後の1936年にニューヨーク・ヤンキースと契約。ルー・ゲーリッグがシーズン途中で引退した1939年には、いずれも初のMVPと首位打者に輝き、両雄の居なくなったヤンキースのナンバーワン・プレイヤーとなった。1941年には56試合連続安打を達成。この連続試合安打記録はメジャー記録であり、現在も破られていない。期間中の安打数は91で、4安打が4試合、3安打が5試合、2安打が13試合、1安打が34試合であった(なお、57試合目で3打数0安打で記録が途絶えた次の試合から再び16試合連続で安打を放っている)。また、マイナー時代には61試合連続安打も記録している。その後も、第二次世界大戦の従軍で数年間プレーしない時期はあったものの、本塁打王や打点王を獲得するなど活躍。高打率を残しながら、デス・バレーと呼ばれるヤンキースタジアムの左中間スタンドに打球を放り込むほどのパワーも持ち合わせていた。1951年に現役を引退。ディマジオの背番号5は、引退と共にヤンキースの永久欠番に指定されている。グラウンドでの態度やファンへの誠実な対応は、野球選手の鑑とされた。同時代のライバル、テッド・ウィリアムズがあまりにも求道者的態度が過ぎてマスコミ受けが悪かったのとは好対照だった。なお来日した際には日本外国特派員協会‎で記者会見を行っている。ディマジオのプレーは優雅といわれ特に守備の上手さは芸術的と言われ、ウィリー・メイズは「メイズは、その打球が本当に難しいのだと分からせる捕り方をした」と表現されたが、ディマジオは長い脚で駆け回る姿が誰よりも優雅で「ディマジオは難しい打球が難しく見えないような捕り方をした」や「彼が守備位置のセンターで打球を追っているのを見ると、その優雅さに息を飲むような気持ちにさせられる。少しも急いでいるように見えないのに素晴らしいスピードで球に追いついている(殿堂入り選手モンティ・アービン発言)」と見ている人が惚れ惚れするような優雅なプレーをし、ライバルのテッド・ウィリアムズも「自分とディマジオの違いはディマジオはすべてのプレーを優雅にこなす点にあり、ディマジオは三振しても絵になった」と語っている。現役最後の年となった1951年には日米野球で来日し、杉下茂(中日)から本塁打を打った翌日に、まだ試合が残っているにもかかわらず突然帰国し、帰国してすぐに引退を発表している。その本塁打は、三塁を守っていた服部受弘(中日)が、「ジャンプして捕ろうとしたら、そのまま伸びてスタンドに入った」と言っていたといい、ディマジオにとっても印象的な本塁打の一つだったようで、後年になっても、「俺がホームランを打ったピッチャー(杉下)は元気にしてるか?」と、杉下のことをよく尋ねていたという。現役引退後、後進の指導などに力を尽くし、故郷に近いオークランドにアスレチックスが移ってきた当初の2年間はコーチを務めている(この時の縁で、ディマジオの死後、臨時コーチ時につけていた背番号5が一時アスレチックスのホームスタジアムに掲げられた)。死の前年まで、古巣ヤンキースの開幕戦始球式はディマジオの務めであり、また後輩のヨギ・ベラとジョージ・スタインブレナーオーナーの対立においても仲裁に動くなど、非常に大きな影響力を持っていた。そのディマジオの人生の成功ぶりは「アメリカ人の成功者の中で生まれて一度もレストランや飛行機の予約をしたことないのはディマジオだけだ」、「ビートルズのメンバー以外では最高にリッチな人生を送った」とアメリカで語られるほど。ディマジオは生涯に二度結婚している。最初の妻、女優のドロシー・アーノルドとは1939年に結婚し、1男を儲けたが、1944年に離婚した。1954年にハリウッド女優マリリン・モンロー(当時27歳)と結婚し、その年の2月1日に二人は新婚旅行で日本を訪れた。結局、結婚生活は9か月で終わったが、マリリンが1962年に死去した後、葬儀はディマジオが取り仕切り映画界からの参列はすべて固辞した。自身が亡くなるまでディマジオは週3回、彼女の墓に赤いバラを送り続けたという逸話もある。ディマジオとドロシー・アーノルドの間に生まれた男児は、父の死の5か月後に死去した。

ジョー・ディマジオは伝説の野球選手であり、マリリン・モンローの夫としてあまりに有名でしょう。アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』には年老いた漁師のサンチャゴが少年にディマジオの話をする場面があり、サイモン&ガーファンクルのヒット曲『ミセス・ロビンソン』、ビリー・ジョエルのヒット曲『ハートにファイア』にもディマジオの名前が出てくるなど、ディマジオがいかにアメリカ人にとってヒーローであったかが分かると思います。ディマジオはそのイメージを保つ為に自分の節制にはとても厳しかったために、最初から奔放なマリリン・モンローと上手くいくはずはありませんでした。しかし離婚後に精神が不安定になり精神病院に入院したマリリンをよりを戻した元夫ディマジオが支えたりもしています。彼の獲得タイトルはMVP3回(1939年、1941年、1947年)、首位打者2回(1939年、1940年)、本塁打王2回(1937年、1948年)、打点王2回(1941年、1948年)。そして不滅の大記録である、56試合連続安打(1941年5月15日 - 7月16日)を達成しています。ディマジオの最期の言葉は、亡くなった元妻への言葉でした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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