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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

立ちよりて影もうつさじ流れては 浮世を出る谷川の水

立ち寄って姿を映さず流れていくのか この世を出て行く谷川の水は

赤松義村の辞世の句。赤松義村は戦国時代の守護大名・戦国大名。室町幕府の播磨・備前・美作の守護大名である。赤松氏当主。置塩城城主。七条政資 の子で赤松政則の養子。養父(岳父)・政則は嘉吉の乱で一時滅亡した赤松氏を再興した中興の英主であるが、男子に恵まれなかったので[1]、義村は延徳元 年(1489年)にその婿養子となり、明応5年(1496年)に政則が急死したため、跡を継いだ。当主就任時はまだ幼少だったため、また英主だった政則の 急死で赤松家は混乱して没後4ヵ月後の8月には播州錯乱といわれる内乱が起こり、それに乗じて家老・守護代の浦上則宗が権勢を振るった。それに反発した一 族の浦上村国が則宗と対立し、播磨で内乱が始まった。当時の幕府管領である細川政元が明応8年(1499年)末にこれを仲裁している。則宗が文亀2年 (1502年)6月11日に三石城で死去し、さらに別所則治など政則時代からの有力家臣が世を去った後は、義母の洞松院が義村の成人までの後見役を務め た。京の幕府で政元の死後、前将軍・足利義材(義尹、義稙)と現将軍・足利義澄との間で権力争いが起きると、赤松家は先代の政則の代より阿波細川家(細川 澄元の実家)と縁が深かったためもあり、義澄側の味方をしたが、船岡山合戦で義澄が敗退した後は、将軍に返り咲いた足利義稙(義材、義尹)と和睦する一方 で義澄の子亀王丸を引き取って養育したりするなど、中央への影響力を依然として保持した。成人し親政するようになった義村は重臣浦上村宗・小寺則職の補佐 を受ける一方で、奉行制を導入し大名権力の強化をもくろむものの、権力が制約されることを嫌った村宗達の反発を受け、永正15年(1518年)には、村宗 は居城の備前三石城に退去してしまう。これに激怒した義村は永正16年(1519年)、則職らとともに軍を率いて備前・美作の村宗の根拠地を攻撃し、一時 は優勢になったものの浦上氏を支持する国人達の抵抗や村宗配下の名将宇喜多能家のため敗北を重ね、守護赤松氏の権威は失墜し、逆に播磨への村宗の侵攻を許 してしまう。捕らえられた義村は養母の洞松院の命令で隠居を余儀なくされ、その後何回か復権を図ったものの果たせず、最後は播磨の室津城に幽閉され、大永 元年(1521年)9月17日に村宗の手により暗殺された。家督は遺児の才末丸(のちの赤松晴政)が継ぎ、守護家としての赤松氏の名目上の存続は許された が、赤松家はこののち衰退の一途をたどることになる。


赤松氏は鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて、播磨を支配した武家の名門です。。赤松氏一族は鎌倉幕府の打倒や室町幕府の創設に寄与し、後に嘉吉の乱を起こして、応仁の乱にも深く関わるなど戦国時代の到来の一因を作りました。赤松義村は名門守護大名としての権威を守るために戦いましたが、世の中は実力本位の戦国の時代へと移っていました。播磨はお酒の名産地であり、おいしい水が出ることで有名ですが、赤松義村は播磨国内の清水で「播磨十水」を定めたことが、江戸時代の地誌『播磨鑑』に記されています。この歌は幽閉され、死ぬ直前に詠まれたものだとされています。これは自らの人生と、時代の移り変わりを詠んだものでしょう。赤松義村は冷泉為広と親交があり、和歌に傾倒した文人であったので、歌はなかなかの出来です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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