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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Eva se va.

エバは去ります。

エバ・ペロンの最期の言葉。エバ・ペロン(1919年5月7日 - 1952年7月26日)は、アルゼンチンの女優、政治家。フアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも介入されるようになった。親しみを込めて呼ばれる通称としてエビータ(Evita) と呼ばれる。現在でもアルゼンチン国内では人気が高い。マリア・エバ・ドゥアルテはアルゼンチン、パンパス草原の貧しい村・ロス・トルドスでバスク系アルゼンチン人の未婚のコック、フアナ・イバルグレンと妻帯者である農場所有者フアン・ドゥアルテとの間に生まれた5人の私生児のうちの1人として誕生。首都のブエノスアイレスから離れた田舎町フニンで育つ。15歳で家出をしてブエノスアイレスに上京する。なお、高等教育は受けていない。ブエノスアイレスでは、当初は水着グラビアや広告モデルなどのモデルの仕事をしていたが、1930年代後半頃より次第にラジオドラマの声優や映画女優として活躍しはじめ、B 級メロドラマ映画やラジオドラマ「エル・ムンド」に出演していた1943年に、パーティーで軍事政権の副大統領兼国防大臣兼労働局長の肩書きを持つフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会う。以後、政界に強い影響力を持つペロンの愛人として過ごし、その庇護の下で、自身のラジオ放送番組によってペロンの民衆向け政治宣伝を担い、第二次世界大戦下で中立国として連合国と枢軸国の双方へ牛肉の輸出を行うことで膨大な外貨を稼いでいたものの、度重なる政変と汚職により貧富の差が大きかったアルゼンチンで、貧しく無学な労働者階級(無学な文盲者の多くがラジオをその情報源・娯楽としていた)から大きな支持を得た。なお、その後使われるようになった「エビータ」の愛称は、ラジオドラマの頃から使われ始めたものである。第二次世界大戦終結直後の1945年10月に、中南米に強い影響力を持つアメリカの支援を受けたエドゥアルド・アバロス将軍によるクーデターが起き、ペロンは軍事裁判で有罪判決を受け(10月11日)刑務所に服役したが、エバはペロン支持者の指示の元、ラジオで国民に向かってペロンの釈放を呼びかける。この様な動きを受けて、支持母体の弱かったアバロスが 10月21日に政権を放棄したためにペロンは釈放され、10月26日にペロンと結婚。選挙母体であるアルゼンチン労働党の支援で選挙戦を戦ったフアン・ドミンゴ・ペロンは翌1946年3月28日にアルゼンチン大統領に就任した。夫のフアン・ドミンゴが大統領に選出された後、ファーストレディ(大統領夫人)となったエバは、夫の地位を背景に積極的に国政に介入するようになった。正義党への支援票を増やすべく、夫の指示を受けて婦人部門を組織させた上に女性参政権を導入させ、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立した。また、ミシン、毛布、食料などを配布(その一部は敗戦による困窮状況にあった日本にも送られた)するなど、「バラマキ政策」を武器に無学なブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をした。これらのことから、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、「エビータ」と愛称で呼ばれるようになり、当時のアルゼンチンで最も影響力のある人物となった。しかし、エバがばら撒いた資金は税金のみならず、労働者や企業から半ば強制的に取り立てた「献金」によってまかなわれていたため、アルゼンチンの経済に大きな悪影響を与えた。また、財団を利用した蓄財や汚職の疑いも受けている。さらに、下層階級出身でまともな教育も受けておらず、しかも選挙で選ばれたわけでもないのに国政に参加していたこと、経済状況も顧みずに公私混合の「バラマキ政策」を行っていたことなどから、きちんとした教育を受けた中流層以上の知識階級や富裕層、軍上層部から大きな批判を浴びた。また水着モデルで元愛人というその経歴から、「淫売」、「成り上がり」と非難を受けた。カトリック信者がその殆どを占める保守的なラテンアメリカの土壌においては、女性として政治において活動的過ぎる人物と見なす者も多かった。1947年6月6日より、「レインボー・ツアー」と呼ばれたヨーロッパ外遊を行い、スペインやイタリア、バチカンやイギリスなどを訪問し、スペインのフランシスコ・フランコ総統やイタリア大統領など多数の国家元首と会見した。これは、第二次世界大戦において中立国でありながら、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと親しいなど枢軸国寄りの姿勢を保ったことから大戦後にファシストの一員として見なされたペロン政権を、ヨーロッパにおいてイメージアップする大規模な広報活動を目指すものであった。なおこの際に、大戦中に蓄えた外貨をこれらの諸国にばら撒くと共に、エバに勲章を与えるように各政府に要請したほか元首や国王との公式晩さん会を開くように依頼したものの、イギリスは、選挙で選ばれたわけでもない上に、毀誉褒貶が激しかったエバとの公式晩さん会を開催することを拒否したほか、バチカンも法王との会見は行ったものの勲章を与えなかった。エバの人気に期待をかけたファンは、1951年頃より、エバに副大統領の地位を与えさらなる政治的権力を得ようとした。この動きに対して、政府内における彼女の影響力の増大を嫌う軍部はこれに危機感を募らせたが、直後にエバが子宮癌と診断を受けたこともあって、フアンはそのポストを与えることを断念した。1952年に 33歳で子宮癌によって死去、ブエノス・アイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。また、エバ・ペロンの墓の建立のために寄付金が集められたが、台座のみが作られただけであった。その後遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。フアン・ペロンはその3年後の1955年9月には軍事クーデターにより大統領の職を追われ、同じく独裁者のフランシスコ・フランコ将軍が君臨するスペインに、独裁者仲間のアルフレド・ストロエスネル大統領が国を治めるパラグアイ経由で亡命した。のちエバの遺体はイタリアのミラノへ空輸され埋葬され、16年後の1971年に遺体は発掘されスペインに空輸された。その後1976年に発生した軍事クーデターによって、エバの遺体はアルゼンチンに返還されブエノスアイレスのラ・レコレッタ墓地、ドアルテ家の墓に改葬された。なお、ブエノスアイレスには彼女の遺品などを展示したエビータ博物館 (Museo Evita) が存在する。

エバ・ペロン本人は知らなくても、彼女のの生涯を描いたミュージカル『エビータ』をご存知の方は多いでしょう。『エビータ』はティム・ライスの作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバー脚色・作曲、エレイン・ペイジ主演でロンドンのウェスト・エンドで初演(1978年)、2900回上演のロングランを記録しています。日本では劇団四季が断続的に上演していますので、見たことがある人もいるかもしれません。またこのミュージカルを基にして、マドンナ、アントニオ・バンデラス主演、アラン・パーカー監督の映画『エビータ』(1996年)もつくられ、マドンナの歌う主題歌『アルゼンチンよ泣かないで』とともに、世界中で高く評価されています。エバは元女優であるだけあって大変な美人であり、アルゼンチン国民から絶大な人気を博しました。ただ彼女の公私混同した活動には批判もあり、例えば税金から支出させたお金で、クリスチャン・ディオールなどのフランスの高級ブランドを愛好したり、裕福なアルゼンチン人の例に漏れず、モータースポーツを愛好し、希少なマセラティA6 G-1500という車を購入しています。エバの最期は子宮癌によって体重が36kgになるまで衰弱し1952年7月26日の午後8:25に33歳で亡くなりました。エバが死亡したニュースは、アルゼンチンの至る所で直ちに放送され、政府は2日間公式活動をすべて保留しました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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