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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Ich sterbe nicht als Christ, sondern als Staatsverbrecher. Mein Werk als Chef der Orpo ist nicht anerkannt worden.

私はクリスチャンとしてではなく犯罪者として死にます。
秩序警察長官としての私の仕事は認められませんでした。

クルト・ダリューゲの最期の言葉。クルト・ダリューゲ(1897年9月15日‐1946年10月24日)は、ドイツの政治家。秩序警察(OrPo)初代長官、第2代ベーメン・メーレン保護領副総督。親衛隊(SS)の高官であり、最終階級は親衛隊上級大将および警察上級大将。ドイツ帝国プロイセン王国のシュレージエン州クロイツブルクに中級公務員パウル・ダリューゲとその妻ラウラの次男として誕生。1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党するが、ミュンヘン一揆の失敗で党が解散したため、一時離れた。その後、禁止された突撃隊(SA)の偽装組織「フロントバン」(Frontbann)に参加。1924年8月から1926年3月22日にかけては「フロントバン」の北方エリアの責任者となった。フライコール退役者や無職者、民族主義者のスポーツ選手などを集めてベルリンに最初の突撃隊(SA)部隊を創設させた。その数は1926年初めには500人に達し、ベルリンのナチ党の一大勢力となった。 1926年11月から1930年7月にかけて突撃隊集団「ベルリン=ブランデンブルク」(SA-Gruppen "Berlin-Brandenburg")の司令官をつとめた。また併行して1926年11月から1930年11月にかけてはナチス党ベルリン大管区指導者ヨゼフ・ゲッベルスの代理を務めている。ダリューゲは、ミュンヘンのナチ党中央に対しても過激な態度を取るベルリン突撃隊の最高指導者であったが、党首アドルフ・ヒトラーは味方につければ頼もしいとみてダリューゲを取りこんだ。ダリューゲは、ゲッベルスとともにベルリンの過激分子を監視する「ヒトラー派」となった。ダリューゲが突撃隊監視の役割を果たせるよう、ヒトラーは、1929年1月からベルリンの親衛隊(SS)部隊の指揮をダリューゲに任せた。さらにミュンヘンにいる親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから独立して指揮してよいことも認められた。しかしダリューゲは、1930年8月30日のヴァルター・シュテンネスらベルリン突撃隊幹部の反乱を防止できず、またゲッベルスの要請でダリューゲのベルリン親衛隊部隊が反乱の鎮圧に出動するも鎮圧に失敗している。やむなくゲッベルスはこれまで散々けなしてきた警察に介入を願い出ている。しかし1931年4月2日にシュテンネスが再度反乱を起こし、再びダリューゲの親衛隊部隊が投入された際には鎮圧に成功している。この際の功績でヒトラーはダリューゲに「SS隊員よ、忠誠こそ汝の名誉」という言葉を贈っている。この言葉は全親衛隊のモットー「忠誠こそわが名誉」の原型となった。1930年7月25日に正式に突撃隊を去り、親衛隊(SS)へ移籍した(隊員番号1,119)。ヒムラーから親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)の階級で迎えられた。親衛隊移籍後もダリューゲは引き続きベルリンの親衛隊をヒムラーから半ば独立して治めていた。1933年9月にはプロイセン州地方警察少将(のち中将)の階級を与えられた。これによりダリューゲはナポレオン以来のドイツ最年少の将軍となった。1934年6月30日から7月初めにかけて行われた「長いナイフの夜」の際にはゲーリング・ヒムラー・ハイドリヒらが主導する粛清に協力した。またエルンスト・レームら突撃隊幹部が粛清されたことで様々な突撃隊の部隊や地区の指揮官に空席が生じたため、次の指揮官が決まるまでの一時的な処置としてダリューゲには五つの突撃隊集団が任せられた。第二次世界大戦開戦後、1939年9月のヒトラーの命令や10月のヒムラーの命令によりダリューゲの秩序警察からも武装親衛隊に人員が出されることとなった。1940年2月から「第4SS警察装甲擲弾兵師団」として 16,000人の警察官が出征している。1942年4月に親衛隊最上位の親衛隊上級大将及び警察上級大将に昇進した。親衛隊上級大将の階級はダリューゲを含めて4人にしか送られていない(他にフランツ・クサーヴァー・シュワルツ、ヨーゼフ・ディートリヒ、パウル・ハウサー)。1942年6月にベーメン・メーレン保護領副総督をしていたハイドリヒが暗殺により死亡するとその後任に任じられた。ダリューゲは、ハイドリヒ暗殺の報復としてボヘミアでリディツェ村やレジャーキ村の虐殺をおこなった。1943年5月、ダリューゲは二度目の心筋梗塞で重体となり、7月31日には秩序警察長官、8月20日にはベーメン・メーレン保護領副総督の地位を降りることとなった(ただし秩序警察長官職には形式的にドイツの敗戦までとどまった。後任のアルフレート・ヴェンネンベルクは秩序警察長官事務取扱という立場であった)。その後、ダリューゲは敗戦まで療養していたが、1945年5月にリューベックにおいてイギリス軍により逮捕された。ニュルンベルクで拘禁されていたが、1946年9月、ダリューゲの身柄はチェコスロヴァキアへと移された。1946年10月9日からベーメン・メーレン保護領副総督としておこなった行為についてチェコスロヴァキアの法廷にかけられ、10月23日には死刑判決を受けた。翌日、即死刑執行に決まる。ダリューゲは、死刑執行直前に壊れたグラスで手首を切って自殺を図ったが、失敗している。パンクラーツ刑務所内において処刑された。

ダリューゲはベルリンの突撃隊指導者時代には喧嘩好きで知られる、非常に好戦的な人でした。そのため知能の低い人物として「ドゥミ・ドゥミ」(Dummi-Dummi)(ドゥミは「馬鹿」の意)と蔭口されていたそうです。また親衛隊内部では、ダリューゲが梅毒によって精神不安定になっているのではないかという噂が流れていたほどなので、同僚や部下からもあまり好かれてはいなかったようです。エルンスト・カルテンブルンナーはニュルンベルク裁判で拘禁されていた際に、ダリューゲは「大言壮語する癖があり、彼の部下の数は30万人だったのに部下が300万人いる、などと述べていた」と述べており、また「ダリューゲはうぬぼれ屋で野心的でもあったが、ハイドリヒよりは道徳をわきまえていた。ハイドリヒは目的のためには手段を選ばなかったが、ダリューゲはむしろ従順な役人という感じだった。」とも証言しています。ダリューゲが最期の言葉で述べている"Orpo"「オルポ(Orpo、 Ordnungspolizei)」とは秩序警察のことで、保安警察と並ぶナチスの体制維持の二本柱の一つでした。もちろん裁判でダリューゲの仕事が認められて免罪される訳もなく、彼は絞首刑に処せられた後プラハの無名墓地に葬られました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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