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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Every damn fool thing you do in this life, you pay for.

人生でやった馬鹿げたことの代償は自分で支払うのよ。

エディット・ピアフの最期の言葉。エディット・ピアフ(1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、フランスのシャンソン歌手。フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne à l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)などがある。数々の伝記が書かれているにもかかわらず、エディット・ピアフの生涯の多くの事実と出来事は謎に包まれている。両親は経済的に貧しく幼いエディットを養う経済的な余裕がなかったため、まもなく母方の祖母の元に短期間預けられた。しかし彼女はエディットを忌み嫌い育児そのものを拒否したため、ほどなく父親はエディットを、ノルマンディーで売春宿を営んでいた自らの母親の元に連れて行った。その後彼は1916年にフランス軍に入隊する。こうしてエディットは、早い時期から娼婦やさまざまな売春宿への訪問者と接触をもち、このような状況は彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。3歳から7歳にかけて彼女は角膜炎で目が見えなかった。ピアフの伝説の一部として、祖母の元で働く娼婦がリジューのテレーズへ巡礼を行った後にエディットの視力が回復したというものがある。1935年にエディットはナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレーによって見出され、彼の店で歌を歌うようになる。そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていた。ルイは彼女が極端な神経質だったにもかかわらず、店への出演を説得した。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルイは彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ」(La Môme Piaf)の愛称を与えた。彼女の最初のレコードはこの年に録音された。ほどなくルイは殺害され、ピアフはその共犯者であると告発されるが、無罪とされた。1940年にはジャン・コクトーが彼女のために脚本『Le Bel Indifférent』を執筆する。ピアフはまた、俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ボーガットのような有名人と知己となる。彼女は自らの歌の多くの歌詞を書き、作曲家達と協力した。彼女の代表曲「ばら色の人生」(この曲は1998年のグラミー賞名誉賞を受賞している。)は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得る。ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る。それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンス運動への貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた。戦後、彼女は世界的な人気を得、ヨーロッパとアメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行を行った。ピアフのアメリカでの人気は『エド・サリヴァン・ショー』へ8度も出演するほどのものであった。1947年のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリッヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。フランス語を話せたディートリッヒは、ピアフの「ばら色の人生」を自らの持ち歌に加えて歌っている。47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌により死去する。死はその翌日に公表されたが、同日友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。彼女の公式の命日は死が公表された10月11日とされている。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女のそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブールは第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。

ピアフは相当ハードな人生を送った人でした。これだけ幼い頃にこれだけ苦しい生活をしていたから「ばら色の人生」を歌えたのかもしれません。「ばら色の人生」こと『ラ・ヴィ・アン・ローズ(La Vie en rose)』は、ルイ・グリェーミ作曲でピアフ自身が作詞しています。当初ピアフの同僚や彼女の作曲チームはこの歌がヒットするとは思っていませんでしたが、この歌は観客の人気を集めるようになり、現在に至るまでこの曲をカバーした歌手は非常にたくさんいます。一番有名なのは友人であった、マレーネ・ディートリッヒでしょうか。1998年に作られたのピアフのドキュメンタリーもLa Vie en Roseと名付けられました。彼女はフランスで最も偉大な歌手の一人として記憶されています。

La vie en roseを聞きたい方はここからどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=0g4NiHef4Ks
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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