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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Tirez le rideau, la farce est jouée.

喜劇は終わった。幕を引け。

フランソワ・ラブレーの最期の言葉。フランソワ・ラブレー(1483年? - 1553年4月9日)は、フランス・ルネサンスを代表する人文主義者、作家、医師。ヒポクラテスの医書を研究したことで著名となり、次いで中世巨人(ガルガンチュア)伝説に題材を取った、騎士道物語のパロディー物語『ガルガンチュワ物語』と『パンタグリュエル物語』からなる『ガルガンチュワとパンタグリュエル』で知られる。これらは糞尿譚から古典の膨大な知識までを散りばめ、ソルボンヌや教会など既成の権威を風刺した内容を含んでいたため禁書とされた。経歴には不明な点が多い。中部フランスのロワール川流域の町シノン近郊の村で、法服貴族出身で国王直轄シノン裁判所付き弁護士、ブルジョア地主の父アントワーヌ・ラブレーの三男として生まれる。ベネディクト会修道院で初等教育を受け、1511年頃にラ・ボーメットのフランチェスコ会修道院に入る。1520年頃にはポワトゥー州フォントネー・ル・コントにある、フランチェスコ会の厳修会派に属するピュイ=サン=マルタン修道院に在籍し、哲学、神学、ギリシア語を学び、この地の法学者アンドレ・チラコーのサークルにも出入りしていた。しかし当時のギリシャ語習得への逆風のため、マイユゼーのベネディクト会修道院に転籍する。1524年には、チラコー『婚姻の掟』に「チラコー讃」を掲載。この頃ヘロドトス『歴史』のラテン語訳を試みる。1525年頃にはリギュージェの付属修道院にいて、ポワチエの詩人ジャン・ブウシェから作詩の手ほどきを受けた。1528年から30年頃まではパリに滞在し、二児を設けたと見られる。1530年にモンペリエ大学医学部に入り得業士となり、1531年の講義実習においてヒポクラテス『箴言集』、ガレノス『医術について』を(ラテン語でなく)ギリシア語原典によって述べ、聴講者を多く集めた。1532年にはヒポクラテス、ガレノスをラテン語に翻訳して出版の盛んだったリヨンから出版し、リヨン市立慈善病院の医師として勤務を始める。1532年に民間伝承中の巨人ガルガンチュアを題材にした、作者不明の短い物語『ガルガンチュア大年代記』が出版され、ラブレーはこれの続編の形式で、当時は未発達であったフランス語を用い、やはり中世民間伝説で小悪魔的存在と知られていたパンタグリュエルをガルガンチュアの息子として設定した『パンタグリュエル物語』(魁偉なる巨人バルガンチュワの息子にして乾喉国王、その名字内に高きパンタグリュエルの畏怖驚倒すべき言行武勲の物語)を、アルコフリバス・ナジェ(Alcofrybas Nasier)のペンネーム(本名のアナグラム)で刊行。続いて当時の占星術のパロディである小冊子『1533年用のパンタグリュエル占い』を発行する。1534年にフランソワ1世の重臣ジャン・デュ・ベレーの知遇を得て、侍医としてローマに同行するなどしていた。またパンタグリュエルの父親について上書きする『ガルガンチュワ物語』(パンタグリュエルの父、大ガルガンチュワの無双の生涯の物語)を執筆する。しかし1534年の檄文事件により身の危険を感じて一時期姿をくらますが、1535年にはイタリアに旅行して、還俗して医学の道に進んだことの赦免をローマ教皇パウルス3世に願い出て認められ、1536年にはパリ郊外サン=モール=デ=フォセのベネディクト会修道院に属する。1537年にはモンペリエ大学で医学博士号を取得。1538年にはフランソワ一世とカール5世によるエーグ=モルト会談に立ち会うなど、政治世界にも関わり続ける。また作品中で激しく批判したソルボンヌや教会の圧力による出版禁止を避けるために、『ガルガンチュア』『パンタグリュエル』の表現を和らげた改訂版を1542年に出すが、両書は翌1543年の禁書目録に掲載されてしまう。1546年には続編の『第三の書』を本名で執筆し、国王の「特認」という出版独占権をお墨付きに得て出版するが、禁書目録の増補版に入れられる。このためロレーヌ地方のメスに逃れて、市の医師として勤務するが、ジャン・デュ・ベレーに懇願して政界に復帰。1548年にローマ駐在全権大使として出発したデュ・ベレーに同行し、その途中の立ち寄ったと見られるリヨンの出版社で『第四の書』の未完成原稿(「不完全版」)が出版されてしまう。その後オデ・ド・シャチヨン枢機卿の知遇を得て、1550年にその尽力により、今度は自著の出版を10年間許可するという国王アンリ二世の「特認」を得る。そして1552年に改めて『第四の書』完全版をパリで出版。この「特認」は当時のフランス国教会とローマ教皇庁の対立において、ラブレーがフランス王権側であると認められたためともされ、『第四の書』の「前口上」でもアンリ二世を褒め讃え、作品中のローマ教会批判も激烈なものとなっている1551年にはムードンのサン=マルタンの司祭職を与えられたが、他者に貸与して職には就かなかった。1553年に死去。パリのサン=ポール教会に埋葬されたとされるが、墓地も現存していない。死後の1564年に未発表原稿の『第五の書』が出版されるが、本当にラブレーの作品かどうかは議論がある。さらに1562年にも『未発表、鐘鳴島、フランソワ・ラブレー先生作』という本も出版されているが偽書と見られている。デジデリウス・エラスムス宛の書簡で「あなたの学識ある乳房で育った」と書くなど、深い敬愛を抱いており、作品にも『痴愚神礼讃』など多くの引用を取り入れている。スコラ哲学や修道士への批判は当時の宗教改革勢力と共鳴するが、後にジャン・カルヴァンはリベルタン(放蕩者、libertins)として批判した。長い間、生年はアベル・ルフランによる『ガルガンチュワ』等著作内の記述に基づく推測で1494年生まれ、没年は1553年以降に消息不明であるとして同年沒と推測されてきた。近年ラブレーの兄による遺産相続記録が発見され、1553年に死去したことが判明。70歳で沒という記録も考えあわせて、1483年生まれであるという推測が有力。

16世紀にイタリアの先進文化がフランスに伝えられると、国王の文芸保護政策もあって文化活動が活発になり、フランス・ルネサンスが花開きました。ラブレーは『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の著者で、フランス・ルネサンスを代表する人文主義者として有名ですが、医者でもありヒポクラテスやガレノスらギリシア医学の研究も行いました。『ガルガンチュワとパンタグリュエル』は、当時ベストセラーになっていた著者不明の『ガルガンチュワ年代記』をヒントにして書かれた、巨人の一族を巡る荒唐無稽な物語です。この物語は既存の権威を風刺し笑い飛ばす内容であったため、1543年にパリ大学により禁書目録に掲載されるという憂き目にあい、また長い間下品なジョークや歌の作家と見なされてきましたが、現在では世界文学の偉大な作家の一人とみなされています。例えばバルザックは20以上の小説の中でラブレーを引用しています。またモンペリエ大学の医学部の卒業生が召集されるときは、必ずラブレーのローブの下で宣言が行われます。ラブレーはラテン語ではなく、まだ未熟であったフランス語で著作を行い、ギリシャ語、ラテン語、イタリア語などの直訳複合語やイディオムをフランス語にもたらしました。彼はおそらくフランス語を豊かにした、最も重要な著者の一人です。ラブレーの最期の言葉は諸説があり、一番有名なのは上記のものであると思いますが、他にも"I have nothing, I owe a great deal, and the rest I leave to the poor"(私には何もない、私は多くを借りたので貧しい人々に残す)や"I go to seek a Great Perhaps."(私は偉大なものを探しに行く)と言ったともされています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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