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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

春秋の花も紅葉もとどまらず人も空しき関路なりけり

島津義弘の辞世の句。島津義弘戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。九州の南端、九州の南端、薩摩国の戦国大名。島津氏の第17代目当主。天文4年7 月23日(1535年8月21日)、島津貴久の次男として生まれる。兄の義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義 祐が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献した。天正5年 (1577年)には伊東義祐を日向から追放、天正6年(1578年)の耳川の戦いにも参加して豊後国から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げている。天正 9年(1581年)に帰順した相良氏に代わり、天正13年(1585年)には肥後国の守護代として八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わっ て島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げることも多かった。天正14年(1586年)には豊後に侵攻して大友領を侵食する。天正15年(1587 年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦う(根白坂の戦い)。このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示 したというが、島津軍は兵力で豊臣軍に及ばず劣勢であり結局敗北する。その後の5月8日(6月13日)に兄・義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張した が、5月22日(6月27日)に兄の懸命な説得により、子の島津久保を人質として差し出すことを決めて降伏した。このとき秀吉から大隅国を所領安堵されて いる。慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康 の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じる。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の 意志を翻して西軍への味方を決意した。こうして、義弘とその手勢は西軍に参戦する。だが、石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存 在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日(10月20日)の作戦会議で義弘が主張した夜襲策が採用されない など、義弘が戦意を失うようなことが続いたとされる。このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅すると また新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・島津豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になった が、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦並びに東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出さ れたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたとい う。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤 退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川か らの討伐に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で、全身全霊を傾けて家康との和平交渉にあたる。慶長5年9月30日(1600年11月5日)、 当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向 かわせるが、家康は攻撃を命令できず睨み合いが続いた。関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、戦上手の義弘も健在。もしここ で長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、家康は態度を軟化せざるを得ず、島津討伐軍に撤退 を命令した。その後、義弘は大隅の加治木に隠居した。その後は若者たちの教育に力を注ぎ、元和5年7月21日(1619年8月30日)にこの地で死去。享 年85(満83歳没)。このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死している。

春の花や秋の紅葉も止まらない、人も空しい関所の道だ。

花や紅葉のように、人も死ぬときはあっさり死ぬものだという無常を悟ったような歌です。家康は島津家を討伐できなかったことが心残りだったようですが、島津家は薩摩藩なのでこの憂いは250年後、倒幕運動という形で現実のものとなります。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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