07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

心形久しく労して 一生ここに窮まれり

最澄の最期の言葉。最澄は平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(み つのおびとひろの)。778年(宝亀9年)、12歳のとき近江国分寺に入り、出家して行表の弟子となる。780年、14歳のとき国分寺僧補欠として11月 12日に得度し名を最澄と改めた。804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発。9月明州に到着。天台山に登り、湛然の弟子の道邃と 行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、翛然(しゅくねん)から禅、順暁から密教を相承する。813年1月、泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海 に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。法相宗の学僧会津徳一との間に、三一権実の論争。徳一 が『仏性抄』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、比叡山へ帰った後も続き、『法華去 惑』(こわく)『守護国界章』『決権実論』『法華秀句』などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はこ とごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。最期は822年6月26日(弘仁13年6月4日)、比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後7日 目、大乗戒壇設立は、弟子・光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。

最澄は仏教者としては空海と並んで有名な人です。空海とは最初は仲が良かったのですが、空海がなかなか密教の奥義を教えてくれないので、最後には疎遠になってしまいました。最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、最澄の弟子たちは最澄の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献しました。天台宗が日本の政治・宗教・文化に与えた影響は絶大ですが、その根本を作ったのは最澄と言えるでしょう。最期の言葉は簡素にして、意味深いものです。十分力を出し尽くしたという思いがあったのでしょう、このような心境で最期を迎えたいものです。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/56-0f901b83
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。