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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

I would rather be a servant in the House of the Lord than to sit in the seats of the mighty.

私は権力の座にいるよりも、むしろ神の下僕でいたい。

アルバン・W・バークリーの最期の言葉。アルバン・W・バークリー(1877年11月24日 - 1956年4月30日)は、ケンタッキー州選出下院および上院議員、アメリカ合衆国第35代副大統領。バークリーはケンタッキー州グレーブス郡ロウの近くの丸太小屋で生まれ、ウィリー・アルバン・バークリー (Willie Alben Barkley) と名付けられた。両親のジョン・ウィルソン・バークリーとエレクトラ・イライザ・(スミス)バークリーは、信心深い小作人であった。同州クリントンのマーヴィン・カレッジに入学、スピーチと討論に優れた彼は、1897年に同校を卒業、ジョージア州オックスフォードのエモリー・カレッジ(今のエモリー大学)に入学し、デルタ・タウ・デルタに加わった。1900年に卒業し、その後バージニア州シャーロッツビルのバージニア大学法律学校に入学した。彼が「ウィリー・アルバン」から「アルバン・ウィリアム」に改名したのはこの頃であった。彼は1901年に法曹界入りしケンタッキー州マクラケン郡のパデューカで弁護士業を始めた。1905年から1909年までマクラケン郡検察官、1909年から1913年までのマクラケン郡裁判所の判事を務め、都市の住民よりむしろ農民に同調した進歩人として名声を築き上げた。そのエネルギッシュで気さくな選挙活動と、巧みな演説技術は彼を地元の民主党における有力候補とした。彼は1912年の議会予備選挙で3人の対立候補を破り、連邦下院議員となった。彼はケンタッキー州第1選挙区で民主党から第63議会および次の6つの議会(1913年3月4日 - 1927年3月4日)への下院議員に選出された。下院議員として彼は禁酒法の改正およびボルステッド法の延長に尽力した。彼は1923年のケンタッキー州知事選において反石炭・ギャンブルの活動を率い、州全体にその名が知れ渡った。バークリーは民主党知事候補指名を僅差で失ったが、選挙におけるその唯一の敗北は、1926年の上院選への出馬を助けることとなった。選挙戦で彼はケンタッキー州における知名度を高め、遊説において一日最大16回の演説をこなすことで「鉄人 Iron Man」の愛称を獲得した。バークリーは1926年に上院議員に選出、1932年、1938年、1944年および1954年に再選され、1927年3月4日から1949年1月19日の彼の辞職まで同職を務めた。彼は1937年から1947年まで院内総務、1947年から1949年まで少数院内総務を務めた。バークリーは1932年のシカゴにおける民主党全国大会で基調演説を行った。同大会ではフランクリン・ルーズベルトが大統領候補に選出された。また、1936年および1948年のフィラデルフィアにおける民主党全国大会でも基調演説を行っている。1933年12月、彼は民主党カンファレンスの副議長および上院院内総務ジョセフ・T・ロビンソンのアシスタントとなった。彼はロビンソンと共に、ニューディール政策関連法の可決に取り組んだ。例えば証券取引所法、全国労働関係法(ワグナー法)、社会保障法などである。これらは1934年から36年にかけて上院を通過した。1937年の司法手続改正法案が実施される間にロビンソンは死去し、バークリーはミシシッピ州選出上院議員のパット・ハリスンと院内総務の座を争った。投票では38対37と、1票差でハリスンを破ることとなる。バークリーの最初の妻、ドロシー・ブロワー・バークリーは長期の病気療養の後1947年に死去した。そのような個人的労苦にもかかわらず、バークリーの公的人格は高く評価された。 彼は最も人気がある民主党員として格付けされて、ルック誌の最も「魅力的な」アメリカ人の座をドワイト・D・アイゼンハワー将軍と争った。彼は1948年にハリー・S・トルーマンの伴走候補者に選ばれ、1949年1月20日から1953年1月20日まで副大統領を務めた。1952年に民主党大統領候補の指名選挙に立候補したが高齢が理由で、イリノイ州知事アドレー・スティーブンソンに敗北した。彼は、アメリカ上院議員に再び選任され、1955年1月3日からその死まで同職を務めた。彼はバージニア州レキシントンで死去し、ケンタッキー州パデューカの近く、ローン・オーク・ロードのケントン山墓地に埋葬された。彼の栄誉にちなんで、エモリー大学の討論クラブがバークリー・フォーラムと改名された。

アルバン・W・バークリーは、アメリカの第35代副大統領です。彼は大統領にはなれませんでしたが、その人格的高潔さではアメリカの政治家の中でも屈指でしょう。彼が尽力したボルステッド法とは国家禁酒法のことで、この法律は一般に狂騒の20年代として知られる、1920年代以後の米国協会に強い影響を与えました。禁酒法は無理のある法律であるだけでなく、アメリカ国外では何の影響も持たないため、多くのアメリカ人がアルコール飲料を飲みにカナダ、メキシコ、それにカリブ海へと行きました。しかもアル・カポネとその敵対者バグズ・モランなどの、シカゴの最も悪名高いギャングの多くは違法なアルコールの売り上げを通して何百万ドルもの大金を稼いぎました。カナダからマフィアを通じて酒を密輸入し大きな財を築いたジョセフ・P・ケネディ(ジョン・F・ケネディの父)の話は有名であり、一種の語り草になっています。最期の言葉からも分かる通り、かれは非常に敬虔なキリスト教的精神の持ち主でした。バークリーの最期は、1956年4月30日にワシントンでの会議でスピーチを行う間に、心臓発作で亡くなりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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