FC2ブログ
10 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 12

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Sleep well, my sweetheart. Please don't worry too much.

よく眠るよ、愛しい人。心配しすぎないで下さい。

ロブ・ホールの最期の言葉。ロブ・ホール(1961年1月14日 - 1996年5月11日)は、ニュージーランド出身の登山家・冒険家。1996年5月のエヴェレスト公募隊を引率中に遭難死した。クライストチャーチ生まれ。ローマカトリック教の信仰を持つ家庭に生まれ9人兄弟の9番目の子として誕生した。少年期から南アルプス山脈で登山に親しむ。15歳で高校を中退し、アウトドア用品の製造と販売を手がける「アルプスポーツ社」へ入社。デザイナーとしてアパレル製品を担当し、製造部長、縫製チームリーダーを務める。アルプスポーツ社に勤務しながら登山を続け、1981年6月にはクック山の冬季登山では達成者のいなかったキャロラインルートからの登頂に初制覇するなどニュージーランド国内では著名な登山家として活動した。その後、アウトドア用品の製造と販売を手がける「マックパック社」へ移籍し4年間勤務した後、自らのアパレルブランド「アウトサイド」を設立し独立する。独立後はシュラフザックやリュックサックなど登山用アパレル用品の製造と販売を行い(「アウトサイド」ブランド製品はホールのエベレスト登山にも使用している)、夏季はプロ登山家 兼 ガイドとして活動を始める。19歳でアマダブラル(6812m)の登頂に初成功。21歳でアマダブラル(2度目)とヌンブール(6957m、2度目)の登頂に成功。1987年にヒマラヤへ戻り世界最高峰登山の準備に入る。1988年に登山家のギャリー・ボールと知り合い登山パートナー 兼 ビジネスパートナーになる。ホールとボールは登山スポンサー獲得の為、7ヶ月間で七大陸最高峰登頂を目指し、1990年5月10日のエベレスト登頂を皮切りに、同年12月12日、時間期限の6時間前にヴィンソン・マシフ登頂に成功し七大陸最高峰登頂最年少記録を樹立した(当時29歳)。同年、ニュージーランド政府より登山家としての功績を評され「ニュージーランド記念メダル1990」を授与された。1992年にk2を制覇。同年5月に公募隊を組織し顧客10名を引率しエベレスト登頂に成功(登頂成功顧客は10名中6名、ホールは2度目のエベレスト登頂)。この年、エリザベス2世より登山家としての功績を評され大英帝国勲章(MBE)を授与された。1990年のエベレスト初登頂の時にベースキャンプ下部の診療所に勤務するニュージーランド出身の女医ジャン・アーノルドと知り合い1992年に結婚した。1996年5月10日午前12時過ぎ(以下、ネパール時間)、ホールは公募隊を引率しガイド3名、顧客8名、シェルパと共にキャンプ4(C4 7980m)を出発。ホール率いるアドベンチャー・コンサルタンツ隊(AC隊)、スコット・フィッシャー率いるマウンテン・マッドネス隊(MM隊)、中華民国政府(台湾国民政府)から派遣された高銘和(通称:マカルー・ガウ)が率いる台湾隊の3隊は行動を共にした。AC隊は同日午後2時までの登頂を目指しC4を出発。同日午後3時まで山頂で顧客の到着を待っていたAC隊のシェルパも下山予定時間の午後2時を大幅に過ぎていたことから下山を開始。同日午後3時10分ごろから天候が悪化し始める。シェルパ頭のアン・ドルジェがヒラリー・ステップ上部にいるAC隊の顧客ダグ・ハンセンを見つけ下山するよう指示を出すもハンセンは指示に従わず登山を続行。ホールはシェルパ全員を下山させ、他の顧客の支援を指示。ハンセンの酸素量が減っていたためホールは山頂を目指した。同日午後5時ごろ、ブリザードが吹き込みC4で視界不良となる。山頂にいるハンセンの意識が低下したことからホールは無線で救助を要請。AC隊のガイドであるアンディ・ハリスが酸素ボンベと水を持参し救助へ向う。同年5月11日午前4時43分、南峰(サウス・サミット)にいるホールから無線が入り、ハリスは到着したが、その後、消息不明になったこと、ハンセンが死亡したこと、酸素ボンベの圧力調整弁が凍りつき酸素が吸引できないこと、手と足が凍傷にかかり下山が困難である状況が伝えられた。同日昼頃、ホールからベースキャンプへ無線が入り、妻のジャン・アーノルドと話せるよう依頼。ニュージーランドにいるジャンと衛星電話で繋ぎ、生まれてくる娘の名前をサラと名付けること、妻に心配しないよう言葉をかけるなど交信を続けたが、途中で無線交信は途絶えた。

エヴェレスト大量遭難は、1996年5月起きたエベレスト登山史上最悪の遭難事故で、8名(12名とする出典もある)の登山家が死亡しました。エベレスト登山は機材の発達や商業化により、1990年代半ばには公募隊による登山が主流となり、アマチュア登山家でも比較的容易にエベレスト登山に参加できるようになりました。狭い場所においては登山家が渋滞し、長時間待つようなことも増えていました。その上にこのツアーは、参加者の中に本来登山には必要の無い大量の資材を持ち込んだり、ガイドが技術、体力共に稚拙なメンバーの牽引に人手を割かれるなど、かなり問題があるものでした。ホールは5度のエベレスト登頂を記録し、シェルパを除く登山家としては当時のエベレスト最多登頂回数記録を樹立したほどの人でしたが、その最期は世界最高峰のエヴェレストで亡くなりました。ホールの妻は、彼の死後に誕生した女児に、遺言で伝えられた名前をつけたました。父親が遭難死した2ヵ月後に出まれたサラは、2011年10月に15歳で母親と共にキリマンジャロ登頂に成功しました。
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/608-93e5eb40
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)