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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I've always loved my wife, my children, and my grandchildren, and I've always loved my country. I want to go. God, take me.

私はいつも妻と子と孫を愛してきた。そしていつも祖国を愛していた。私は行くよ。神よ私を連れて行ってください。

ドワイト・D・アイゼンハワーの最期の言葉。ドワイト・デヴィッド・アイゼンハワー(1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカの軍人、政治家、第34代大統領。19世紀生まれの最後の大統領であり、第二次世界大戦中のヨーロッパ戦線の連合軍最高司令官。愛称は「アイク(Ike)」 。アイゼンハワーは、デイヴィッド・ジェイコブとイーダ・エリザベス・ストーバー・アイゼンハワーの7人の息子の3番目として、テキサス州デニソンで生まれた。アイゼンハワーは1911年6月に、アメリカ合衆国陸軍士官学校(ニューヨーク州ウェストポイント)に入学し、1915年に卒業した。彼はテキサスとジョージアの様々なキャンプで1918年まで歩兵と共に、また1918年~1922年まではメリーランド州キャンプ・ミード等で戦車隊と共に軍務に就いた。1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の後に、アイゼンハワーは1942年6月までワシントンで参謀に着任した。彼は戦争計画部門の主任レナード・ゲロー将軍の元で太平洋防衛の主任代理に指定され、更にゲロー将軍の後任となった。その後、アイゼンハワーは参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の下、首席助手補佐官に指定された。上級司令官の地位へアイゼンハワーを導いたのは、マーシャルとの緊密な関係だった。マーシャルはアイゼンハワーの卓越した管理・統率能力を認識していたのである。第二次世界大戦においてまだ枢軸国の勢いが衰えていなかった1942年6月に、アイゼンハワーはロンドンに司令部を置くヨーロッパ戦域司令官に着任した。ここでアイゼンハワーはモロッコとアルジェリアへの連合軍上陸作戦、即ち「トーチ作戦」を計画し実行した。12月20日、陸軍元帥に昇進。アイゼンハワーは1920年に少佐になってから中佐に昇進するまで16年を要し、第二次世界大戦勃発時には一介の中佐にすぎなかったが、その後わずか5年3ヶ月で元帥に昇進した。(1941年3月大佐昇進、同年9月准将昇進、1942年3月少将昇進、同年11月中将昇進、1944年大将昇進)これはアメリカ陸軍史上、空前の記録であった。1944年末まで、ヨーロッパ戦線における450万人の連合軍全軍の最高司令官であった。アイゼンハワーはこれらの地位で、リーダーシップと外交の偉大な才能を示した。アイゼンハワーはオマル・ブラッドリー将軍やジョージ・パットン将軍のような前線の指揮官の尊敬を勝ち取り、ウィンストン・チャーチル、バーナード・モントゴメリー元帥およびシャルル・ド・ゴール将軍のような一筋縄ではいかない協力者と巧みに取り引きした。戦略上チャーチルやモントゴメリーとは基本的に相容れないものがあったが、彼らとの関係を転覆することはなかった。またアイゼンハワーはゲオルギー・ジューコフのようなソ連の司令官や、しばしばヨシフ・スターリンと直接交渉することさえあったが、それはルーズベルト大統領が彼に対して信頼を抱いていたからであった。1945年5月8日のドイツの降伏後、アイゼンハワーはフランクフルトを本拠に、アメリカによる占領地帯の軍政長官に就任したものの、程無くパットンにこの地位を委任した。彼は1945年11月に陸軍参謀総長に任命され、1948年2月まで在任した。冷戦中の1950年12月には北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官になった。元帥であるアイゼンハワーは終身、現役陸軍軍人に留まる資格を有していたが、選挙に当たって1952年7月陸軍を退役している。そして大統領を2期8年務めた後、次のケネディ大統領はただちにアイゼンハワーを「1944年12月20日に溯って現役の陸軍元帥に再任」している(「現役復帰」ではない)。アイゼンハワーは1948年7月にコロンビア大学の学長に選ばれ、ニューヨークに居を構えた。1945年以来、大統領候補となる可能性を指摘されてきたが、1936年以来積極的に共和党大統領候補としての指名を求めていたマッカーサーと異なり、政治にほとんど関心がなく、選挙で投票したことも無かったので共和党支持か民主党支持かも知られていなかった。トルーマン大統領は否定しているが、歴史家の何人かは、1948年の大統領選挙でトルーマンがアイゼンハワーを支持して引退することを申し出たとする。1952年の大統領選では、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは出馬を最初拒絶したが、結局説得を受け、共和党の大統領候補として立候補することとなった。共和党の候補となった理由としては、民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだとアイゼンハワーは語った。オハイオ州選出の上院議員ロバート・タフトを破り、共和党の大統領候補としての指名を得た。大統領選の序盤には、アイゼンハワーは「非政治家」としてキャンペーンを行い、対立候補であるイリノイ州知事のアドレー・スティーブンソンについて言及しなかった。その代わりに、他の共和党員が、彼の温厚な公のイメージを守りつつも、民主党員を「共産主義に寛大」として非難する冷戦キャンペーンをすることを黙認した。このため、アイゼンハワーはカリフォルニアから選出された若手の上院議員で、反共姿勢で知られたリチャード・ニクソンを副大統領候補に選んだ。アイゼンハワーとニクソンは442人の選挙人の投票を得て、11月の選挙に勝利した。1953年1月20日に大統領に就任したアイゼンハワーは、大統領職にある間を通じて人気を保持した。1956年には、1952年に続いてテキサスとテネシーのような伝統的に民主党勢力が強い州の票を維持し、再びスティーブンソンを前回選挙以上の大差をもって破り、1期目の副大統領のニクソンとともに再選された。大統領時代は、ソ連を筆頭とする東側諸国とアメリカ合衆国を代表とする資本主義陣営との冷戦の最盛期ともいえる時代であった。ニクソン副大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、共産主義との戦いを指揮した(ベトナム戦争など)。しかし、共和党の過激な反共主義者の煽動にもかかわらず、ジョージ・ケナンによって提唱された封じ込め主義を受け、平和共存と中道路線を追求した。就任後には行き詰まった朝鮮戦争を終了すると約束し、停戦は1953年7月に署名された。さらにアジアでの共産主義国による脅威をとどめるために、韓国と米韓相互防衛条約を、中華民国と米華相互防衛条約に署名したほか、東南アジア条約機構を形成した。また、ニクソン副大統領を日本や韓国、オーストラリアやニュージーランドなどの友好国に送り、同盟外交を推進した。アイゼンハワーは戦後の生涯の大半をペンシルベニア州バレーフォージで過ごしたが、アイゼンハワーの記念館は彼が成長したカンザス州アビリーンにある。アイゼンハワーと彼の妻は、瞑想の場所と呼ばれる小さな礼拝堂に埋葬されている。

ドワイト・D・アイゼンハワーは第34代アメリカ大統領であり、日本の政治にも大きな影響を与えた人です。1960年1月に日本との安全保障条約を締結したのを受け、首相の岸信介の招待で日本を訪問しようとしましたが、安保闘争の激化により訪日をキャンセルしました。彼は大統領職にある間を通じて高い人気を保持し続け、朝鮮戦争を終結させたり、在職中に世帯所得を20%増加させるなどの業績を上げました。しかし、退任すると若く活動的に見えた後継者ジョン・F・ケネディとの対比から、「何もしない大統領だった」と批判され、不当に評価を下げられました。彼は全消化管に非連続性の慢性肉芽腫性炎症を生じる、原因不明のクローン病という難病を抱えながら、大統領の激務を勤めるなどの苦難にも見舞われています。アイゼンハワーの最期は1969年3月28日に、ワシントンD.C.のウォルター・リード陸軍病院で鬱血心不全で亡くなりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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