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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Sangue, sangue, sangue.

血液、血液、血液。

シエナのカタリナの最期の言葉。シエナのカタリナ(1347年3月25日 - 1380年4月29日)は、ドミニコ会第3会員の在俗修道女(尼僧)。本名はカテリーナ・ベニンカーサ(Caterina Benincasa)といい、裕福な家庭の出身だった。ローマ・カトリック、アメリカ・福音主義ルーテル教会、聖公会で聖人。祝日は4月29日(かつては4月30日)。その象徴として、ユリの花、本、十字架像、心臓、茨の冠、聖痕、指輪、バラの花、骸骨、教会の小模型、教皇庁の紋章を掲げた船の小模型が用いられる。身体に現れる有形の病、火事に対する守護聖人。イタリアでは、流産、看護師、病人の守護聖人。ここではイタリア語表記に倣いカテリーナと表記する。カテリーナは、シエナの裕福な染物屋・ベニンカーサ家の23番目の子として生まれた。彼女は正規の教育を受けなかった。7歳の時に彼女はイエス・キリストの夢を見たのがきっかけで家族が反対するにもかかわらず、自分の純潔をキリストへ捧げることを決めた。カテリーナの両親は、娘に女性として普通の人生と結婚を望んだが、その願いに反し、彼女は十代後半から一生を、祈りと瞑想と独りで暮らすことに全て捧げることにした。18歳の時、彼女はドミニコ会の会員となった。会員として、カテリーナは修道院の中で暮らすよりもむしろ隠者として自宅で暮らした。彼女は女子修道院でおそらく許されたことのない禁欲の行を練習した。カテリーナは多くの厳しい自己鍛錬の行を行い、日課として睡眠と食事を削った。カテリーナは非常に食が細いことで知られ、彼女は自分が吐き戻したものも食べていた。 彼女は、聖餐以外の生涯の大部分を断食していたことで特に有名であった。カテリーナがもっと自分で食べようとしているのを知った聖職者たちは、彼女に食べさせようとしたが、失敗に終わった。しきたりとしての断食は中世後半に普通に行われており、カテリーナの断食のやり方はキリスト教の模範と照らし合わせても突出している。カテリーナは病人や貧者を援助することに人生を捧げ、彼らの世話のために病院や自宅へ出向いた。彼女は男女の賛同者を集めて彼らと北イタリアを旅し、布教した。カテリーナは信仰教書の学習にも人生を注いだ。1366年頃、カテリーナが病気がちになり始めてから、彼女は『キリストとの神秘の結婚』を自身の手紙につづった。1370年、彼女は地獄、煉獄、そして天国の幻視を受けた。彼女は有力者の男女に宛て手紙を書き始め、特にイタリアの共和主義者と公国君主の間に平和を請い、教皇庁がアヴィニョンからローマへ帰るよう求めた。彼女はローマ教皇グレゴリウス11世と長く文通をし、聖職者の改革と教皇領の管理について彼に尋ねた。1376年6月、カテリーナはフィレンツェ大使としてアヴィニョンへ向かい、教皇領との和平を結ぼうとしたが成功しなかった。彼女は、グレゴリウス11世に、教皇庁を正規の首都ローマに返すよう説こうとしたのだった。彼女はイタリアの平和回復には教皇のローマ帰還が重要であると考えていた。彼女は教皇に大層深い印象を与えたが、教皇庁の有力な幹部は帰還に消極的であった。それでも教皇は自身の施政権を1377年にローマへ戻した。ところが、翌1378年にグレゴリウス11世が亡くなると、その後継者が問題となった。彼女はウルバヌス6世の味方となった。カテリーナはローマへ召喚され、ウルバヌス6世の宮廷に滞在し、貴族と正統な枢機卿たちを説こうとした。だが、新教皇の頑なな姿勢は彼女の仲裁を失敗に終わらせ、枢機卿たちはアヴィニョンに戻って対立教皇を立てた。これが40年にわたる教会大分裂の始まりとなった。彼女は帰天する(亡くなる)1380年までローマで暮らした。教会大分裂の問題は、彼女の生涯が終わるまで彼女を悩ませた。カテリーナの手紙は、初期トスカーナ文学の傑作の一つとみなされている。300以上の手紙が現存する。教皇に宛てた文中、彼女はしばしば教皇を愛情込めて『パパ』もしくは『バッボ』(Babbo、イタリア語で父親を意味するくだけた言い方)と読んでいた。カテリーナは1380年春、発作のためにローマで急死した。彼女は、イエス・キリストと同じ33歳で死んだのだった。シエナの人々は、彼女の遺体が戻ることを願った。伝説では、カテリーナの頭がどのようにシエナへ帰ることができたかふれている。シエナの人々は彼女の遺体全てを運んで検問を通過できないことを知り、頭部だけを鞄に詰めて持ち帰ることにした。それでも彼らは警護兵に制止されてしまい、彼らは力添えをカテリーナに祈った。もはや検問を突破できないと悟った彼らは、鞄を開けて中を見せたが、そこにはバラの花びらがたくさん入っていた。シエナへ着いてから鞄を開けると、彼女の頭部はその中にあった。この伝説のために、カテリーナはいつもバラを持った姿で表される。1461年、ピウス2世はカテリーナを列聖した。彼女の祝日は、伝統的なローマ・カトリック暦では4月30日であったが、新しいローマ・カトリック暦では4月29日に改められた。この日はルーテル教会派を含む多くのキリスト教徒によって祝日とされている。1970年にパウルス6世は、女性として初めてカテリーナと聖テレサに教会博士の称号を贈った。1999年、ヨハネ・パウロ2世はカテリーナをヨーロッパの守護聖人の一人とした。シエナのカタリナは伝説的な聖女にして、女性で三人しかいない教会博士の一人です。彼女は生涯に渡って、途方もない断食と禁欲生活を送りました。彼女は本当にほとんど何も食べず、その代り一日単位で聖餐式を受けました。現存する300以上の彼女の手紙は初期トスカーナ文学の傑作の一つとみなされており、そのおよそ3分の1は女性へのものでした。1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂した教会大分裂が起こると、彼女は仲裁を行いましたが上手くいきませんでした。彼女は聖アッシジのフランチェスコと共に、イタリアの守護聖人であり、1999年にヨハネ・パウロ2世はカテリーナをヨーロッパの守護聖人の一人としました。カタリナの最期は1380年4月29日に33歳のときに、ローマで亡くなりました。スペインには、以下のような民話が伝わっています。カタリナは死後天国で主イエスと聖母マリアに可愛がられていました。ある時母が悪態をつくという罪から地獄へ行かされる事を知ったカテリーナは、主イエスと聖母マリアに母を天国に入れて下さいと頼みました。聖母マリアに命じられた天使がカテリーナの母親を地獄から天国へ連れて行こうとすると、他の魂がカテリーナの母親にしがみ付き一緒に天国へ行こうとしました。その際カテリーナの母親は「天国へ行きたければ私の様に聖女を娘に持て」と他の魂に悪態をついた為、地獄に戻されてしまいました。カテリーナは再び同じ頼み事をするが聞き入れられなかったため、自ら天国を離れ母親のいる地獄へ移って行ったそうです。芥川の「蜘蛛の糸」のような話ですが、案外着想はここから来ているのかもしれません。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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