07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

Oh Swaim, there is a pain here. Swaim, can't you stop this? Oh, oh, Swaim!

おお、スイム。ここが痛いんだ。痛みを止めることはできないか?おお、スイムよ!

ジェームズ・ガーフィールドの最期の言葉。ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド(1831年11月19日 - 1881年9月19日)は、第20代アメリカ合衆国大統領。暗殺された二人目の大統領であり、初の左利きの大統領でもあり、大統領に選出された唯一の現職下院議員でもある。大統領選挙史上最も僅差(約1万票)で当選したが、在任はウィリアム・ハリソンに次いで短く6ヶ月と15日に過ぎなかった。ガーフィールドはオハイオ州モアランド・ヒルズに生まれ、1856年にマサチューセッツ州のウィリアムズ大学を卒業した。1858年にルクレティア・ルドルフと結婚し、オハイオ州上院議員(1859年 - 61年)時の1860年に法曹界入りを認められた。ガーフィールドは南北戦争の間、少将として合衆国陸軍に勤務し、シャイローの戦いに参加した。奴隷制度と南部諸州の連邦離脱に反対し、1863年に共和党員として下院議員に選出された。1880年の大統領選ではユリシーズ・グラント、ジェームズ・ブレイン、ジョン・シャーマンといった共和党の主な候補者が大統領候補指名に必要な代議員を得ることができない中、ガーフィールドは妥協の産物として党大統領候補に指名されたが、本戦では首尾良く民主党候補のウィンフィールド・ハンコックに勝利した。その就任演説でガーフィールドは多くの官庁改革を提案、そのほとんどが後継者のチェスター・アーサーにより達成された(ペンドルトン公務員改革法、1883年成立)。ガーフィールドは1881年7月2日に首都ワシントンの鉄道駅でチャールズ・ギトウによって銃撃され、長期の療養を余儀なくされたが、約2ヶ月後に死去した。在任が短かったことからその業績は僅かなものだった。ガーフィールドは1831年11月19日にクリーブランドの南東、オハイオ州カヤホガ郡オレンジ郡区(現在のオハイオ州モアランド・ヒルズ)の丸太小屋で、5人兄弟の末っ子として生まれた。ガーフィールドは法律を学び1860年にオハイオ州の法曹界に入った。その前の1859年にオハイオ州議会議員に選出され政界入りし、1861年まで熱心な共和党員として貢献した。ガーフィールドは1880年の大統領選挙に共和党の大統領候補として指名された。選挙戦では、豊富な資金力を背景に民主党の対立候補ウィンフィールド・スコット・ハンコックに対し優位に進め、第20代大統領に当選した。しかし、当選後は党内の有力政治家たちが主要ポストをめぐり対立した。当時は猟官制度が幅を利かせており、選挙民に賄賂を握らせたり候補者の宣伝を買って出た者も多かったとされる。その中にチャールズ・J・ギトウと呼ばれる男がいた。ギトウは、自分が選挙活動でガーフィールドを応援した見返りを求めていたが、彼は何の役職にも就けず、この一件で大いにガーフィールドを恨んだ。ギトウは精神病歴を持つ弁護士で、神が大統領を殺すことを命じたと思いこんでいた。ガーフィールドは1881年7月2日、大統領就任の4か月後にギトウによって銃撃された。ワシントンD.C.の鉄道駅で、背後からガーフィールドを44口径リボルバーで撃った。弾丸はガーフィールドの体内で発見することが出来ず、アレクサンダー・グラハム・ベルは弾丸を見つけようとして、金属探知器を考案した。しかし探知機は金属のベッドフレームを誤認し見つけることは出来なかった。ガーフィールドは感染症で病状が悪化し、1881年9月19日にニュージャージー州エルバロンで死去した。医師が弾丸摘出のために滅菌しない指で患部を探ったり、手を突っ込んだり、針で肝臓を傷つけるなどの荒療治がなかったら死ぬことはなかったとされる。

ジェームズ・ガーフィールドが暗殺されたために、地雷探知機が発明されたということを知っていたら、その人は大したものです。彼は政治的な妥協により党大統領候補に指名され、大統領になってからわずか6ヶ月と15日で暗殺されてしまいました。ガーフィールドは1881年7月2日に、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.でチャールズ・J・ギトウに銃で撃たれ、11週間後の9月19日に亡くなりました。ギトウは色々な職業に手を出して失敗した後、政治活動を行い、自分が大統領選におけるガーフィールドの政治的勝利に大きく貢献したと信じ込みました。ギトウはその重大な援助に対して大使の職に値する報償を受けてもよいと信じ、まずはウィーン、続いてパリの職を求めました。彼は1880年の大統領選挙の間、ニューヨーク市の政府機関の辺りをうろつき回り、その努力に対する報償を期待しましたが、当然何の反応もありませんでした。ガーフィールドが就任宣誓を行った翌日の3月5日に、実際にホワイトハウスに入り込んだり、様々な閣僚や他の著名な共和党員に接触したりしまいたが、もちろん何の効果もありませんでした。5月13日にホワイトハウスの待合室から締め出され、5月14日にはアメリカ合衆国国務長官ジェイムズ・G・ブレインから直接に二度と戻らないよう言われました。これにより、ギトウは感謝の念を持たない大統領を殺すよう神が自分に指示していると心に決め、ボルティモア・ポトマック鉄道の駅(現在は壊されている)で、背後の至近距離から大統領を狙撃しました。ギトウは恐らく統合失調症だったのではないかと思われますが、ここまでとんでもない逆恨みで殺された国家元首も珍しいでしょう。ギトウは警察に逮捕されても、勝ち誇ったような言葉をどこでも繰り返しつぶやいていたそうです。ギトウは裁判の間も奇抜に振る舞いに、世間の耳目を集めメディアお気に入りのようなものになりました。彼はガーフィールドの殺人が神の意思であり、自分は神の意思を実行する道具に過ぎないので、自分は無罪と主張しました。ギトウの裁判は精神異常が検討されたことで有名になった、アメリカ合衆国で最初のものの一つです。当たり前のことですが、彼の主張は通らず1882年1月25日に有罪が確定しました。ギトウは控訴しましたが、それも棄却され、1882年6月30日にワシントンD.C.で絞首刑になりました。絞首台の上でギトウは自分で書いた「私は神の国に行く」と題した詩を朗誦したのですが、ギトウは当初その詩を歌うときにオーケストラの伴奏を求めました。しかし、これは当局の賢明な判断により拒絶されました。ギトウは大統領を殺さなければ、中々面白い人物だったかもしれません。要人の暗殺は許されることではありませんが、歴史に名を残すこともできたので、当人は案外満足しているのではないでしょうか。さて、問題です。ジョージ・ワシントンとジェームズ・ガーフィールドのアメリカ大統領になった以外の共通点はなんでしょう? 答は二人とも医者の治療が原因で死んだことです。医師たちはガーフィールドの傷を汚れた消毒していない指や器具で探り続け、当てずっぽうで弾丸の場所を見つけ出そうとしたため、ガーフィールドは合併症を起こし、敗血症と気管支の肺炎に続いて、強い心筋梗塞あるいは脾動脈瘤破裂を起こして亡くなりました。この荒療治がなかったら、ガーフィールドは死ぬことはなかったとされています。最後に少し良い話を。アレクサンダー・グラハム・ベルは、ガーフィールドの体内に留まっている弾丸を探すために金属探知機を発明し、これは後に地雷探知機などに応用されました。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/657-a3d88bb4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。