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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Water.



ユリシーズ・グラントの最期の言葉。ユリシーズ・グラント(1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の一人である。軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。オハイオ州クラーモント郡ポイント・プレザントで、ジェシー・R・グラントとハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。出生時の名前はハイラム・ユリシーズ・グラント(Hiram Ulysses Grant)。グラントの父親と母方の祖父は、ペンシルベニア州で生まれた。父親は製革業者だった。1823年の秋に、一家はオハイオ州ブラウン郡のジョージタウンへ移住した。グラントは、17歳になるまでほとんどの時間をそこで過ごした。17歳のときに、オハイオ州選出の下院議員トーマス・L・ハマーからニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校への推薦を受け取った。この際ハマー議員は誤って「ユリシーズ・S・グラント」として彼を登録してしまった。しかし、グラントはそれが気に入ったようで、以降はその名前で通した。また、ミドルネームのSは母親の旧姓のシンプソンから取ったとまで、周りに説明していた。グラントは、1843年に39人中の21番でウェストポイントを卒業した。グラントは、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍し、レサカ・デ・ラ・パルマ、パロアルト、モンテレーおよびベラクルス包囲戦に参加した。モリノ・デル・レイの戦いでの功績で中尉に昇進し、チャプルテペクの戦いの後に中佐に昇進した。1854年7月31日に多量飲酒を理由に軍隊を辞職した。辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイ州ガリーナで父親の皮革・金物店の経理助手となった。南北戦争において、グラントは最優秀の将軍の1人であり、また最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官であった。戦術的な能力だけでなく、戦略家として南北戦争において両軍を通じて最も優秀であったといえる。優秀な司令官をもたなかったために再選が危うくなったエイブラハム・リンカーン大統領を救った一因となったのみならず、その後の切り札となり、前半では西部戦線での攻勢に、後半では東部戦線での大反攻に大きな功績を挙げた。南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の十日後、1861年4月24日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに彼が募った志願兵を連れて到着した。知事はグラントを反抗的な第21イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州に派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン知事は武装中立を宣言して州に侵入する軍隊は南北どちらであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は8月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる。1862年2月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し(ヘンリー砦の戦い、ドネルソン砦の戦い)、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これの撃退に成功した(シャイローの戦い)。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、再任されることになる。10月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。1863年4月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるビックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、7月4日にこれを陥落させた(ビックスバーグの包囲戦)。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日の翌日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。11月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部において南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた。リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクドウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てられることになる。1864年3月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった。西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサバンナへの海への進軍を行った。その途上の各都市を破壊し、物資の略奪を公然と行った。南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた。一方でグラントは人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始。荒野の戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして水上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都のリッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに水路押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンド及びピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対する軍に救援が送れず、シャーマンはやがてサバンナから北上してさらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。リーは最後の賭けに出てピーターズバーグを放棄し、南に撤退しジョンストン率いるテネシー軍と合流しようとしたが(アポマトックス方面作戦)グラント率いる北軍に捕捉されアポマトックス・コートハウスで遂に降伏した。これによりなし崩し的に残りの南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に陸軍元帥の階級を新しく作成してグラントを任命し、その労をねぎらった。グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会で満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選では、合計5,716,082の投票中3,012,833票 (52.7%) を得票し勝利した。グラント政権は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件では、個人補佐官オービル・E・バブコックが不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍長官ウィリアム・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠がないが、彼は犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後さえ、強く反応しなかった。荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、支持が急落した。1879年6月には国賓として日本を訪れた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。浜離宮で明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった。1883年に全米ライフル協会の第8代会長に選ばれた。1884年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し、マーク・トウェインの勧めもあって、回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。回想録はベストセラーとなり、妻子に快適な収入を与えることとなった。1885年7月23日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去した。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。

ユリシーズ・グラントは南北戦争における、北軍最大の英雄であり後に大統領にまでなりました。しかし彼は汚職とスキャンダルにより、歴史家からアメリカ最悪の大統領の一人とみなされています。南北戦争は南部の理屈の方が筋が通っているので、南部に肩入れしたくなります。グラント将軍は軍事の才能はともかく、過度の飲酒で軍籍を解雇されたり、作戦とはいえ都市の物資の略奪を行ったりと、あまりよろしくない話が多い人です。またグラントは最終的に勝利を収めましたが、戦術指揮能力はライバルのリー将軍の方が高かったというのが一般的な評価です。南北戦争で特に有名な戦闘として、コールドハーバーの戦いを紹介しておきましょう。この戦いはアメリカ史の中でも流血が多く、一方的な結果となったことで記憶されており、南軍の防御を施した部隊に対し北軍が絶望的な正面攻撃を敢行して、数千の兵士が倒れたとされています。グラントはその自叙伝の中でこの戦闘のことを。「私は常に、コールドハーバーでの最後の攻撃が行われたことを後悔してきた。同じような攻撃が1863年5月22日にビックスバーグでも行われたと言うことが出来る。コールドハーバーでは、我々の受けた大きな損失を償えるようなものは何も得られなかった。」と述懐しています。グラントはそのまずい決断故に「不器用な肉屋」とまで呼ばれ、北部州では厭戦気分が高揚しました。しかし皮肉にもこの結果が北部とグラントに幸運をもたらしました。リーはこの戦果が、エイブラハム・リンカーンに対する政治的反動を生み、1864年の大統領選挙ではもっと平和を志す候補者に敗れることを期待し、ピーターズバーグにむけてほとんどグラント軍を攻撃せず、戦争の残り期間(その最後の1週間を除いて)防御を施した塹壕線の背後でリッチモンドを守ることで過ごしました。周知のとおりこの期待は叶わず、9月のアトランタ占領によってそれらの望みは崩壊し、アメリカ連合国の終焉は時間の問題となりました。グラントの最期は1884年に63歳で喉頭癌により亡くなりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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