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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

All is well; the Seed of God reigns over all and over death itself. And though I am weak in body, yet the power of God is over all, and the Seed reigns over all disorderly spirits.

全て良い。神の種子は全てのものと死それ自体に君臨する。そして私の肉体は弱くとも、神の力は全てを凌駕し、その種子は全ての乱雑な魂に君臨する。

ジョージ・フォックスの最期の言葉。ジョージ・フォックス(1624年7月 - 1691年1月13日)は、イギリスの非国教徒で、一般にクエーカーとして知られるキリスト友会の創始者である。激動の時代を生きて、宗教的・政治的な世論に、人並み外れた妥協を許さぬキリスト教の信仰に対するアプローチを行うことにより、反旗を翻した。日記はその生き生きとした個人的な旅行記ゆえに、クエーカー以外にも人気がある。子どもの頃からフォックスは真面目で、宗教的な気質を備えていた。教育はイギリス国教会の信仰と実践をもとに行われた。両親はイギリス国教会の信徒だった。正式の学校教育を受けていなかったが、読み書きはできた。まだ幼い頃から聖書に魅了された。そして聖書の勉強を続けた。大人になって、家族は「牧師になったらいいのではないかと考え」たが、そうせずに靴職人と牧畜業者の見習いになった。このことは、フォックスの瞑想にふける気質に合致していた。主人と取り引きする羊毛商人たちの間では勤勉で有名だった。生活の中で何かに取り付かれたかのように常に徹底的に謙虚かつ一切の贅沢を放棄する「質素」なスタイルを通した。羊飼いとして過ごした短い時間は、この人生観を形成するのに大変重要であった。晩年になってアベル、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデが全て羊飼いあるいは牛飼いであったということ、そしてそれゆえ、学問的な教育は聖職者の素質とは関係がないということを指摘して、歴史の大いなる循環を説く一通の手紙を書いた。ジョージ・フォックスは特別な宗教的信仰が形作られるように、イギリス中をひたすら旅し続けた。祈りと瞑想の中で、自分の信仰の本質に関して以前より素晴らしい理解に到達した。そして、何を自分を必要としていたのかということも分かるようになった。この過程を「幕開け」と呼んだ。つまり、そのことを一連の突然起こった主題(それはその時までに既に自分自身が完全に意識するまでになっていた)の啓示という形で経験したからである。また標準的なキリスト教の理解についてその深い内面まで理解するに至った。1648年、フォックスは布教活動を正式に始めた。フォックスの説教は著作から広まったが、主にそれは自身が計画した強烈な個人的体験の結果であった。フォックスは当時の道徳を痛烈に批判し、(神を)信じる者は救われるとするランター派の批判は避けたが、聴衆に穢れなき生活に導こうとした。この時、様々な見解が各宗派にあり、そうした対立と混迷により各派代表により何度も開かれた会議でフォックスは自身の意見を述べようとすることになる。1651年までに多くの有能な説教師を集め、改宗を呼び掛けて各地を放浪し続けた。フォックスらは殴打などの激しい妨害受けながらも放浪を続けた。1650年にダービーでフォックスは神を冒涜したとして投獄され、判事は「神の言葉に震えよ(tremble)」とフォックスが言うのをあざ笑ってフォックスらを「震える者」(Quakers)と呼んだ(現在広く友会徒を呼ぶ言葉になっている)反王政復古の戦いを(あるいはいかなる理由であれ武器を取ることを)拒否して刑務所で酷い扱いを受けた。1653年にカーリッスルで有罪判決を受け、この判決で死刑もあり得たが、議会は「若者が宗教で死ぬ」よりはと釈放を求めた。迫害が始まって、忠誠要求と暴力がフォックスにのしかかってきた。元々フォックスの教えで絶対的なものであった宣誓と武器を取ることを拒否するということが、更に公の場で重みを増し、どんな圧力を受けてもフォックスらは行わないことを決意した。1652年の手紙で「波が(国家権力のこと)頭を叩き割ろうとも」「聖霊と共にあっても」「肉体を武器に」しないよう友会徒に求めた。刑務所でさえジョージ・フォックスは手紙を書き説教することを止めなかった。投獄されたことは救いを求める人々と(投獄された人と同様に看守も)接する機会を与えてくれたものと感じていた。そこでの行動で(頬を打たれたらもう一方を差し出すような)手本も示そうとした。1671年、バルバドスとアメリカ大陸のイギリス人居住地に行き、そこに2年間滞在した。北アメリカ大陸で最初に足を踏み入れたのはメリーランドだった。そこで地元のクエーカーの4日間の会合に参加した。様々なイギリス人が、他の植民地へと移って行く中で、その地に残った。なぜなら、先住民と会いたいと思っていたからである。先住民はクエーカーの方法に興味を持っていた(会合に参加するか「大論争」があったとフォックスは記録しているが)。フォックスは先住民の普段の物腰に感動し、愛情と敬意を表明した。植民地各地を巡る大旅行を終えると、1673年にジョージ・フォックスは帰国した。暫くして再度投獄され、健康を損ない始めた。マーガレット・フェルは国王に釈放を請願し、釈放されたが、フォックスはすぐに弱った体で動くのは無理だと感じた。代わりに本や手記を増やす一方で公私の手紙の数を増やした。クエーカーの考えが重要だと確信していた誓約の問題に労力を多くつぎ込んだ。神に対するものと同じく真理と内なる光に関係する毎日の生活における真理の価値を目の当たりにすることができると感じた。1677年と1684年に、オランダのフレンド会を訪ね、規律を守るための会合を組織した。ドイツにも信仰の旅に出かけた。ジョージ・フォックスは1691年1月13日に死去し、ロンドンにあるバンヒル墓地のクエーカー埋葬地に葬られた。

ジョージ・フォックスはクエーカーとして知られるキリスト友会の創始者です。日本で最も有名なクエーカー教徒は新渡戸稲造でしょう。クエーカーの教義はイングランドで始まり、主にアメリカ合衆国、ケニア、ボリビアといった国々に広まりました。信者は全世界で約60万人、内北米約12万、英国約4万います。クエーカー教徒は良心的兵役拒否を行った事で有名で、多くの非暴力の提唱者や反戦活動家が友会徒でした。クエーカーの教義の最も中心にある考えは、内なる光であり、この概念は個人の中に神が現れ、神の存在が直接個人の経験に現れるとしています。歴史上友会徒は、自己の存在に立脚できない形式的な信経や宗教哲学に疑いを持ち続けており、共に会い神が個人に与える考え方と導きを共有することで、神の皆に与える導きが得ることができるとし、内なる光が語ることをその人が声に出して言うときその人が「聖職者」であるとしました。フォックスは宗教的経験は教会という建物によって定義されるものではないと考え、野原や果樹園などで礼拝をすることを好み、神の存在はそういう自然な世界の中でもまた感じられると信じていました。また彼は女性が一人前の人間としての魂を持っていると主張して、他のグループと対立したことからも分かるように、当時としては驚くべき男女平等を信じるなど、強い内面的な平等主義の思想を持っていました。クエーカーの内なる光の信仰は、証言(Witness 「信仰的証し」の意)と呼ぶ幾つかの主要概念へと発展し、その証言には平和、男女・民族の平等、質素な生活、個人が誠実であり続けることが記されています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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