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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

われならぬ 人のしをりを たどりつゝ たか根に匂ふ はなをみるかな

私ではない誰かの道しるべをたどりつつ 高い峰にい咲き誇る花を見よう

宍戸真澂の辞世の句。宍戸真澂(ししど ますみ、文化元年8月13日(1804年9月16日) - 元治元年11月12日(1864年12月10日))は江戸時代末期の勤皇家、萩藩士。通称は山三郎、九郎兵衛、左馬之介。名は忠美。号は橘廂、鳰浮巣翁、宍翁。長門萩生まれ。贈正四位。父は林隆州。養父は宍戸知之。子に宍戸小弥太。毛利一門宍戸氏の一族である。萩藩の重臣として活躍し、萩藩大坂屋敷の留守居役を務めた。若き頃に伴信友や近藤芳樹に師事して、国学を熱心に学び、勤皇思想に感化され、勤皇の志士として活動した。同藩の来島又兵衛、久坂玄瑞らとも気脈を通じて活動したが、1864年の禁門の変に連座して自害した。

宍戸真澂は幕末の萩藩士で、甲子殉難十一烈士の一人に数えられる人物です。この長州藩士11人は、江戸幕府による第一次長州征伐に際し長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄で処刑されました。宍戸は禁門の変に連座して処刑されました。禁門の変は八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件でした。「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによるもので、蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残っています。宍戸は長州藩においては、周布政之助や高杉晋作らと同じく慎重派でしたが、事件の責任を取って自害しました。金門の変の戦闘そのものは一日で終了しましたが、京都市街は21日朝にかけて「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失し、敗北した長州藩は朝敵となりました。宍戸真澂は有名な人物ではありませんが、辞世の歌は悪くありません。「しをり」とは山道などで木の枝を折って道しるべとすることで、自然・人事に対する作者の思いやりの心を表す、蕉風俳諧の美的理念の一つです。「たか根」は高嶺で高根は借字です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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