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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

雲水の行方はいづこむさし野を ただ吹く風にまかせたらなん

流れる雲はどこへいくのだろう武蔵野を ただ吹く風にまかせたい

但木土佐の辞世の句。但木土佐(ただき とさ)は、幕末の仙台藩の奉行。本名は但木成行(ただきなりゆき)。なお「土佐」は通称であり、諱が「成行」である。但木土佐は幕末における当主で、戊辰の危機に当たり奉行に挙げられて国政を執行し、軍事を総官した。土佐は前奉行芝多民部の放漫財政の後始末をする為、倹約令を出し文久2年(1862年)10月には10万石の分限で表高62万石の仙台藩を運営することを宣言し、緊縮財政を断行。殖産興業政策により藩財政の立て直しを図る。土佐は、佐幕開国の保守主義を主張し、尊攘派と対立した。藩財政が破産同様となっていて、尊攘派が主張するような藩主自らが上洛して中央で活動できる状態でないことを土佐は知っていた。そして幕府の政権奉還の時には病の主君・伊達慶邦に代わり会議に与った。朝廷から仙台藩に会津討伐の挙兵を命ぜられた時、土佐は会津に謝罪させようとしたが果たせず、奥州鎮撫総督が東下して会津討伐を促したので、やむなく仙台藩は兵を動かした。やがて会津は降伏となり、藩主は総督・九条道孝の前に出て会津のために弁訴したが、参議・世良修蔵らはこれを許さぬばかりか、のちに奥羽一円を掃蕩する陰謀が世良の密書により発覚する。仙台藩強硬派はこれに激怒し、世良を捕縛して処刑し、同日、白河城を攻略。また、九条総督と醍醐参謀を捕らえて仙台城下に軟禁した。奥羽越列藩同盟を起こし、薩長軍に対して白河、相馬、越後諸道で徹底抗戦したが、秋田藩が同盟から離反した事が致命的となり、まもなく三春、相馬、米沢諸藩も薩長軍に降り、仙台藩も撤兵した。藩主は遠藤允信らの議を受け入れて降伏。藩論一変することで叛乱の責任者をなった土佐は縛につき、東京に拘禁される。明治2年(1869年)5月19日、叛逆首謀の罪で、土佐は坂英力と共に麻布仙台屋敷において斬刑に処された。享年53。

但木土佐は幕末の仙台藩の奉行です。彼は佐幕開国の保守主義を主張するという立場を主張したため、尊皇攘夷派と対立しました。但木は会津藩征伐で降伏した会津を弁護しようとしましたが、世良修蔵のあくまで武力討伐せよという強硬姿勢により失敗しました。仙台藩士らは世良を穏便な会津処置の障害と見なすようになり、仙台藩士・瀬上主膳、姉歯武之進、福島藩士・鈴木六太郎、目明かし・浅草屋宇一郎ら十余名により、世良は暗殺されました。世良の死により新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まりました。会津戦争が終わると但木は逮捕され、反乱の責任者として処刑されました。1869年の戊辰戦争の終結から8年後の1877年に西南戦争が起こると、多くの会津人が薩摩への復讐のために政府軍に志願しました。会津藩家老であった山川浩陸軍中佐は、西南戦争に出征する際、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」という歌を詠んでいます。特に「日本警察の父」こと川路利良の率いる警視隊から選抜された抜刀隊には、賊軍とされた旧会津藩士など旧幕府出身者が数多く志願し、激戦となった田原坂の戦いを征しました。また会津藩出身の軍人・柴五郎は、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と記しています。これもまた因果応報でしょう。さて、歌についてですが、これはなかなか良い歌です。雲水とは「行雲流水」のことで、物事に執着せずに淡々と自然の成り行きに任せるという意味で、彼のそうなりたいと願う心情を素直に表しているのでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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