FC2ブログ
09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

咲く梅の花ははかなく散るとても 香りは君が袖にうつらん

咲いている梅の花は儚く散ったとしても 香りは君の袖に移るだろう

武田耕雲斎の辞世の句。武田耕雲斎(たけだ こううんさい、享和3年(1803年)- 元治2年2月4日(1865年3月1日))は、幕末の人。水戸藩の天狗党の首領。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。位階は贈正四位。官位は伊賀守。松原神社 (敦賀市)の祭神。靖国神社合祀。武田耕雲斎の家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の傍系で甲斐守護・武田氏の下で守護代を世襲した跡部氏である。跡部氏はもともと武田氏と同じ甲斐源氏であるが、祖は武田氏とは別流の小笠原氏であった。しかし、姻戚関係によるつながりのためか、耕雲斎は武田信玄の末裔を称して武田姓に改めた。祖先の跡部勝資が『甲陽軍鑑』において「奸臣」とされていた為、この家名を嫌ったことから藩主斉昭の許しを得て武田姓への「復姓」(改姓)をしたという。水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部正房(跡部家の宗家・300石)の養嗣子となった。文化14年(1817年)、家督を継ぐと同時に武田氏に改姓。戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称される。徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、天保11年(1840年)には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。しかし弘化元年(1844年)、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。嘉永2年(1849年)、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、安政3年(1856年)には執政に任じられた。そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。しかし万延元年(1860年)、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、慶応元年(1864年)には藤田小四郎(藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎は初め拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。そして、800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀(越前国新保)で幕府軍の追討を受けて降伏した。降伏すると、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬首された。享年63。その後、妻・2人の子・3人の孫も斬り殺された。耕雲斎は斉昭の影響を強く受けた尊皇攘夷派であったが、過激な攘夷には消極的だった。天狗党の首領とされた時、彼は既に死を覚悟していたらしい。墓所は水戸市所在の妙雲寺。

武田耕雲斎は幕末の水戸藩の天狗党の首領です。天狗党は水戸藩内外の尊皇攘夷派により結成され、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵しました。幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵しました。藤田は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将としましたが、後に武田が主将となりました。天狗党は最終的に1865年1月14日、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧されました。この時捕らえれた天狗党員828名のうち、352名が処刑されました。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科されました。首謀者たちの首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)より3日間、水戸城下を引き回されました。更に那珂湊にて晒され、野捨とされるという厳しい処置が取られました。彼は上記の自性の歌の他にも「かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪」と「雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪」という歌を残しています。耕雲斎は徳川斉昭の影響を強く受けた尊皇攘夷派であしたが、過激な攘夷には消極的であり、天狗党の首領とされた時には、彼は既に死を覚悟していたそうです。尊王攘夷思想の発祥の地は水戸であり、水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩でしたが、藩内抗争により人材をことごとく失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無くなりました。
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/707-e3a87246
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)