07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

皇國のためにぞつくすまごころは 知るひとぞ知る神や知るらん

天皇の国のために尽くす真心は 知る人は知っているし神様も知っているだろう

水郡善之祐の辞世の句。水郡 善之祐(にごり ぜんのすけ、文政9年12月12日(1827年1月9日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))は幕末の河内の大地主で勤皇の志士。天誅組河内勢の首魁。贈正五位。諱は長雄。姓は紀氏という。紀有常の後裔。来孫の名前は田中瑞基。喜田岩五郎の長男に生まれ、水郡神社の祠官となり氏を水郡と改める。豪農で伊勢国神戸藩の代官(大庄屋)を勤めたため士籍に列する。勤皇の志が強く、志士達を金銭的に援助していた。水郡家(喜田家)は代々勤皇の家で彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている。黒船来航以後、志士の動きに共鳴して京都に上るも、文久3年(1863年)「足利三代木像梟首事件」に関与し帰郷する。文久3年(1863年)8月17日の天誅組の挙兵に際しては、財政面で大きな貢献をしたのみならず、自らも息子英太郎(当時13歳)とともに参加、小荷駄奉行となっている。天誅組崩壊の後捕えられ、京都六角獄にて処刑された。死後勤皇の忠臣として、明治31年(1898年)に贈正五位を賜った。

水郡善之祐は幕末の河内の大地主として生まれ、尊皇派の志士となった人です。彼は豪農から武士となったのですが、実は身分の固定されたと思われている江戸時代でも、武士になることはできました。善之祐は大金持ちから、過激派になったという点で、ウサーマ・ビン・ラーディンに似ています。彼が関与したとされる「足利三代木像梟首事件」とは、幕末の文久3年2月22日(1863年4月9日)に、京都等持院にあった室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒された事件で、犯人は平田派国学の門人である三輪田元綱、師岡正胤、青柳高鞆、長尾郁三郎、西川吉輔らとされています。それまでの天誅は、開国派や公武合体派であった個人を狙ってのものが大半でしたが、この事件あたりから倒幕の意図が示されるようになりました。京都守護職の会津藩主松平容保は、この事件に激怒し、4月には犯人は逮捕され、6月には処罰されました。容保は、それまで倒幕派の者とも話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていたが、一転して壬生浪士(後の新選組)などを使い尊皇攘夷派を取り締まるようになりました。こうしたことから考えると、この事件は後の会津藩の悲劇を起こしたきっかけであるとも言えるでしょう。「ナショナリズムはならず者の最後のよりどころ」という格言がありますが、残念ながら宗教やナショナリズムや極端な政治思想は、自己正当化の道具となる場合があるようです。果たして神様は彼の真心を知っていたのでしょうか?
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/716-4dbb5f14
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。