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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

ふたゝひと返らぬ歳をはかなくも 今は惜しまぬ身となりにけり

二度と返らない年月を儚く思っても 今は惜しまない身となったな

武市瑞山の辞世の句。武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8ヶ月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

武市瑞山は土佐勤王党の、まさに黒幕と言うべき人でした。恐らく彼は武市半平太という名前の方が有名でしょう。武市の行ったことの影響は膨大であり、また功罪相半ばする微妙な部分もありますが、吉田東洋を暗殺したのは流石にやりすぎです。彼は優れた剣士でもあり、門下には中岡慎太郎や岡田以蔵らがいます。また彼が人格が高潔にして誠実であったことは、同時代の多くの人が口を揃えています。文久元年(1861年)に土佐勤王党を結成し、坂本龍馬を筆頭に、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟しました。当時の土佐藩は隠居させられていた元藩主山内容堂の信任厚い参政・吉田東洋と、配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていました。武市はついに東洋暗殺を決断し、帰宅途上にあった東洋を、土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げました。この暗殺により、勤王党が藩政の主導権を握り、東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなりました。武市は京洛における尊皇攘夷運動の中心となりましたが、八月十八日の政変により、長州藩が中央政界で失脚すると同時に事態は一転し、勤王派は急速に衰退しました。武市は投獄され、最期は慶応元年(1865年)閏5月11日に、容堂の御見つけ(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、切腹を命じられました。武市は体を清めて正装した後、南会所大広庭にて未だ誰も為しえなかったとも言われてきた三文字割腹の法を用いて法式通り腹を三度かっさばき、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命するという、もの凄い死に方をしました。武市の死後、土佐藩は薩長とともに倒幕勢力の一翼を担うことになるのですが、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり大政奉還を主導し、同じく乾退助(板垣退助)が戊辰戦争で土佐藩兵を率いるという皮肉なことになります。維新後、木戸孝允が山内容堂との酒の席で酔い「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と容堂をなじったそうですが、この時の容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われています。しかし、病に倒れて病床にあった晩年の容堂は、半平太を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言ったと伝えられています。彼の行動を一概に判じるのは難しいですが、国のため藩のため主君のために、自らの手を汚して尽くした末に、不敬を理由に殺されたのは可哀想ではあります。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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