09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

春雨にみの覆うべき方もなく 今は笠間の露と消ゆらむ

春雨に蓑を覆うべき方法もなく 今は笠間の露と消えるだろう

伊藤嘉融の辞世の句。伊藤嘉融(いとう-よしなが 1844-1864)幕末の武士。天保15年4月4日生まれ。肥前島原藩(長崎県)藩士。平田銕胤に国学をまなび、梅村真一郎とともに尊攘運動に参加、藩から除籍される。足利氏木像梟首事件、長州藩外国船砲撃事件などにかかわり、鈴木重胤暗殺にも関与したという。元治元年水戸の天狗党の乱にくわわり敗走、9月8日自刃した。21歳。通称は益荒(ますら)。

伊藤嘉融はあらゆる事件に関わった末に、最期は天狗党の乱に加わり、自刃するというもの凄い人生を送った人です。彼が関わった長州藩外国船砲撃事件は、文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えました。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えました。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行しました。これは下関戦争のきっかけとなりました。伊藤嘉融が暗殺した鈴木重胤は幕末の国学者で、平田篤胤の弟子でした。故に鈴木は尊皇派だったのですが、廃帝の故事を調査したため、尊皇派の報復として殺されてしまいました。このように、幕末の暗殺などの事件には短絡的なものがかなり多くあります。伊藤は攘夷派でしたが、下関戦争の敗北によって州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化してゆくことに積極的になり、事件を起こした者たちの思惑とは全く正反対の結果となりました。これもまた歴史の皮肉というやつなのでしょう。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/741-010be272
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。