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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Strike, man, strike!

打てよ、お前、打て!

ウォルター・ローリーの最期の言葉。ウォルター・ローリー(1552年または1554年 - 1618年10月29日)は、イギリスの廷臣、探検家、作家、詩人。イングランド女王エリザベス1世の寵臣として知られ、新世界における最初のイングランド植民地を築いた功績がある。ウォルター・ローリーは1552年頃、デヴォン州のバドリー・サルタートンからさほど遠くないヘイズ・バートンの家で生まれた。異母兄弟にサー・ハンフリー・ギルバートがおり、カリュー・ローリーという同父母兄弟もいた。ローリーの家族は宗教的には非常にプロテスタント寄りであり、カトリックである女王メアリー1世の治世には、小規模な逃走を何度も経験している。その中でも特に記録すべきものとして、ローリーの父は殺害されることを避けるために塔に身を隠さなければならないことがあった。このようにして幼少期の間に、ローリーはカトリックへの憎しみを培い、1558年にプロテスタントである女王エリザベス1世が王位につくとすぐにそのことを証明して見せた。1572年に彼はオックスフォード大学オリオル・カレッジの学生となり、1575年にはミドルテンプル法学院に入学した。ローリーは、幾度かにわたって旅行・探検・植民目的での新世界への航海を行った。ローリーの、北アメリカ・「バージニア」(現在のバージニア州とノースカロライナ州を含む)への植民計画は、ロアノーク島においては失敗に終わったものの、後続の植民地への道筋を開いた。彼の航海は当初彼自身と友人達の出資で行われており、アメリカの植民地を築けるほどの安定した収入が得られなかったのである(17世紀前半に行われた後続の植民は、株式会社であるバージニア会社によって行われており、充分な植民地を作り出せるだけの資本金を共同出資することが可能であった)。1579年から1583年の間、ローリーはアイルランドで起こったデズモンドの反乱の鎮圧に参加し、その後の土地接収と分配の恩恵にあずかった。彼は、ヨール(Youghal)とリズモア(Lismore)の2つの沿岸の町を含む40,000エーカー(1,600平方キロメートル)の土地を得た。彼はまたマンスターの大地主のひとりとなったが、イングランドの住民を彼の土地へ移住させようとする試みは、限られた範囲での成功を収めたのみであった。1591年、ローリーは密かにエリザベス(ベス)・スロックモートンと結婚した。彼女はローリーよりも11歳年下で、女王付きの女官のひとりであり、この時3度目の妊娠中であった。翌年になってこの無許可の結婚が発覚すると、女王はローリーを牢に入れ、ベスを宮廷から解雇するよう命じた。数年後には、ローリーは再び寵愛を受けるようになった。夫妻はお互い献身的に愛し続けており、ローリーがいない間、ベスが家庭の財産と名声を有能に守り続けていた。彼らの間にはウォルターとカリューの2人の息子がいた。1600年から1603年にかけてローリーはジャージー島の総督を務め、この島の防衛網の近代化を行った。彼は、島の首都セント・ヘリアへの道を守る要塞を、「イザベラ・ベリッシマ要塞」あるいは英語で「エリザベス城」と命名した。この頃、エリザベス女王による王室の寵愛は復活していたものの、それは長続きしなかった。エリザベス1世は1603年に死去し、その年の11月17日、ローリーはウィンチェスター城のグレート・ホールにおいて、メイン事件への関与の疑いから内乱罪で裁判を受けた。彼はロンドン塔に、1616年まで監禁された。獄中において、ローリーはギリシャとローマの古代史に関する本『世界の歴史 A Historie of the World』を著した。1616年、ローリーはロンドン塔から解放され、南米オリノコ川流域に黄金郷を探索すべく派遣される2度目の探検隊を指揮することになった。探検の途中、ローリーの部下達がメンバーのひとりであるローレンス・キーミスの指示の下、スペインの入植地であったサン・ソーム(San Thome)で略奪を行った。この町で最初の戦いの中、ローリーの息子ウォルターが銃弾に当たり死亡している。ローリーがイングランドに帰還した後、憤慨したスペイン大使ディエゴ・サルミエント・デ・アクーニャがジェームズ1世にローリーの死刑判決を実行するよう求めた。スペイン大使の要求が認められ、ローリーは1618年10月18日、ホワイトホール宮殿で斬首刑に処せられた。J・H・アダムソンとH・F・ホランドによるローリーの伝記『海の羊飼い Shepherd of the Ocean』によると、ローリーの妻ベスは彼の首を「防腐処置を施していつも自分のそばに置き、しばしば訪問者達にウォルター卿に会いたいかと尋ねた」。ローリーの首はその後、ウェストミンスター寺院の隣にある聖マーガレット教会に、彼の胴体と共に埋葬された。

ウォルター・ローリーは、大英帝国の植民地主義の基礎を築いた人です。であるのと同時に、彼はエリザベス朝における一流の詩人の一人であり、その詩はプレーン・スタイルと呼ばれる率直で飾らない文体で書かれています。C・S・ルイスは、ローリーが当時の、イタリア・ルネッサンスの影響(緻密な古典への言及や、複雑な詩的趣向など)に反対する作家の集まりであった「銀の詩人」の一人であったとしています。ローリーの詩は、人文的楽観主義の始まりよりも、中世により特有の厭世観(contemptus mundi)を示しているとされています。ウォルター・ローリーの最期の言葉として上記の他に、斬首を行う斧を見せられた時に、"This is a sharp Medicine, but it is a Physician for all diseases and miseries."「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」と言ったというものもあります。ちなみに、かれは大の愛煙家であったことで有名ですが、イギリスに喫煙の習慣を広めたのは彼です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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