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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I had a lover's quarrel with the world

私は世界との恋人のことで口論をしました

ロバート・リー・フロストの墓碑銘。ロバート・フロスト(1874年3月26日 - 1963年1月29日)はアメリカ合衆国の詩人。作品はニューイングランドの農村生活を題材とし、複雑な社会的テーマや哲学的テーマを対象とするものが多く、大衆的人気も高く人口に膾炙した。生前から表彰されることもしばしばで、ピューリッツァー賞を4度受賞した。ロバート・フロストはニューイングランドとの深い関わりがよく知られているが、生地はカリフォルニア州サンフランシスコであり、11歳までこの地で育った。ロバートの父は元教師で、『サンフランシスコ・イブニング・ブルテン』(後に『サンフランシスコ・イグザミナー』に統合)の編集者を務めた他、市の収税吏に志願したものの失敗した。若きロバートの選ばなかった道は、ニューイングランドの詩人になる代りにカリフォルニアの編集者になることだったのかもしれない。後には農村生活と関わることになるフロストだが、少年期は都会に暮らした。最初の発表作品はローレンス高校在学中の高校の雑誌上であった。ダートマス大学に入学し、シータ・デルタ・キー・フラタニティへの入会を認められた。その後、家に戻り、教職およびさまざまな職につく。その中には新聞配達や工場労働などもあったが、こういった仕事は肌に合わなかったようである。1894年に初めて15ドルで詩を売る。『ニューヨーク・インディペンデント』1894年11月8日号に掲載された「マイ・バタフライ」("My Butterfly")である。この成功に自信を持ったフロストは、エレノア・マリアム・ホワイト(Elinor Miriam White)に結婚の申し込みをしたが、卒業まで大学に通いたいという理由で拒絶された。フロストはバージニア州のディズマル湿地へ旅立ち、帰ってから再びエレノアに求婚し、この時には卒業していた彼女もこれを受けた。二人はフロストが2年間通っていたハーバード大学で結婚した。大学での成績は良好だったが、増えてゆく家族を支えるために大学を離れ、祖父が死の直前に二人のために購入してくれたニューハンプシャー州デリーの農場で働き始めた。フロストは働きながら朝の時間に後に著名となる作品の多くを書きためたが、農業面では失敗し、9年の後、1906年にピンカートン・アカデミーの英語教師として教職に戻り、1911年にはニューハンプシャー・師範学校(プリマス州立大学の前身)に移った。1912年、フロストは家族とともに英国に渡り、グラスゴーでしばし暮らした後、ロンドン近郊のビーコンズフィールドへ居を構えた。翌年、最初の詩集『少年の心』(A Boy's Will)を出版し、またエドワード・トーマスやT・E・ヒューム、エズラ・パウンド等と知己となる。特にパウンドは、後にフロストの作品を(好意的に)評する最初のアメリカ人となった。このような友人に囲まれ、イングランド時代のフロストは傑作とされる作品のいくつかを残している。第一次世界大戦勃発により、1915年、フロストはアメリカに戻る。ニューハンプシャー州フランコニアに農場を購入し、執筆、教職、講演の日々を開始する。フランコニアの家は1938年まで夏のサマー・ハウスとして用いられ、現在でもミュージアム、また詩に関する集まりの場として維持されている。1916年より1938年にかけて、フロストはアマースト大学で英語教授として後進の指導にあたった。また1921年からは42年間にわたり(3回の例外を除いて)、毎年夏から晩秋にかけて、バーモント州リプトンのミドルベリー大学で「ブレッド・ローフ英語学校」にて指導にあたった。ブレッド・ローフ・キャンパス近くのフロストの農場は、現在ではミドルベリー大学の所有となり、国定史跡に指定されている。1924年に New Hampshire: A Poem With Notes and Grace Notesにより最初のピューリッツァー賞を受賞。1931年に Collected Poems で、37年に A Further Range で、そして43年に A Witness Tree で計4度受賞した。1961年1月20日、86歳のフロストは、ジョン・F・ケネディの大統領就任式にてスピーチを行った。ほぼ2年後の1963年1月29日、ボストンにて生涯を終え、バーモント州ベニントンのオールド・ベニントン墓地に埋葬された。ハーバード大学の1965年同窓名簿によれば、名誉学位を授与されている。また、ベイツ大学、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学からも名誉学位を授与された他、ダートマス大学からは2度の名誉学位を授与される初めての人物となった。また生前に、バージニア州フェアファックスのロバート・フロスト・ミドル・スクールとアマースト大学の中央図書館が彼の名を冠することとなった。最期は1963年1月29日に亡くなった。

この墓碑銘は彼の詩の一節から取られたものです。ロバート・フロストはニューイングランドの農園や自然を背景に、農夫の視点から生活を描き、「ニューイングランドの田園詩人」と呼ばれました。この人は詩の外にも多くの格言も残しています。例えば、

Poetry is what is lost in translation.
詩とは、翻訳で失われる何かである。

In three words I can sum up everything I've learned about life: it goes on.
人生で学んだすべてを、私は3語にまとめられる。それは「何があっても人生には続きがある。」(it goes on)ということだ。

Education is the ability to listen to almost anything without losing your temper or your self-confidence.
教育とは、立腹したり自信を喪失したりせずにほとんどすべてのことに耳を傾けられる力のことだ。

などです。なかなか皮肉の効いた面白いことをいう人だと思います。またこのほかにも「人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ」ということを言っていますが、これは人付き合いにおける至言だと思われます。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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