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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな

世の人の口の端にかかる露のようなはかない自分も 死んでは何の罪もないだろうな

筒井定慶の辞世の句。筒井定慶(つつい じょうけい、1556年(弘治2年)? - 1615年(慶長20年)?)は戦国時代から江戸時代にかけての大名、武将。大和国出身。(つついさだよし)とも読む。筒井氏から福住氏に入った福住順弘の次男正次として生まれた。母は伯父にあたる筒井順昭の次女。兄の順元は福住本家を継いだらしいが、消息が不明である。弟に慶之および順斎がいるが、この二人は同一人物かもしれず、慶之が後に順斎を名乗った可能性がある。福住氏においては主殿助を名乗り、興福寺勧学院に学んだと伝わる。定慶の名は興福寺関係者によく見られるので、もとは僧侶としての号であったかもしれない。のち筒井氏内衆の一員となり、おそらく元亀元年頃から戦場にも出陣したらしい。東山内衆は殆どが福住氏の与力であった。のちに従兄の筒井順慶の養子となって筒井主殿助を名乗る。この時は弟の慶之も同様に養子になったとされる。慈明寺順国(福住順弘の弟)の子定次が順慶の養子となるとこれに後継者の位置を譲った。筒井順慶の没後は豊臣秀長に仕えたが、 秀長が病で死去し、その子の秀保も急死し、大和羽柴家が断絶した後は徳川家康についた。筒井順慶の死後に筒井家を継いでいた従兄の筒井定次が慶長13年(1608年)に改易となると、家康の協力もあり筒井家を相続、大和郡山城1万石を領し、名を筒井定慶に改めた。慶長20年(1615年)4月には、大坂夏の陣が勃発。豊臣方からこちらに付くようにとの誘いがあったが、これを断った。やがて豊臣方の大野治房軍が来襲、大和郡山城を包囲し城下町に放火した(郡山城の戦い)。大野勢が2,000余だったのに対し定慶の手元には与力36騎があるのみで、定慶は敵わずと見て城を放棄、福住に落ち延びた。のちに逃亡を恥じて切腹したと伝わるが、自害と称して福住村に逼塞したとも伝えられる。[1]辞世の句は「世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな」。大坂夏の陣での不自然なほどの敗退ぶりは、豊臣方の出方を見るため、家康の指示によってあらかじめ仕組まれた作戦であったとする説がある。伝承では、定慶かその子が隠棲し、その後、尾張国に行ったと言われるが、確証は無い。定慶の死(または逼塞隠棲)により、大名としての筒井氏は断絶した。だが弟・慶之(順斎)の子孫が1,000石の旗本となった。幕末に日露和親条約の交渉を行った筒井政憲はその末裔であるという(養子のため直接の血の繋がりは無い)。筒井順慶の養子については諸説があって一定せず、福住氏の系図も混乱して実態がよく分からない。

筒井定慶は戦国時代・江戸時代初期の大名です。大坂冬の陣が終結した後、豊臣方の使者細川兵助が郡山城の筒井定慶に出向き合力を求めてきました。豊臣方が出した条件は「兵1万を直ちに送り、戦勝した時には筒井定慶には大和国を、筒井順斎には伊賀国を与える。但し徳川方につくのであるならば攻撃を開始する」という内容でした。細川兵助は必死の説得を続けましたが、途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に高恩を感じていたのか申し出を断りました。元和元年(1615年)4月26日、豊臣方は直ちには大野治房、箸尾高春、細川兵助ら2千兵の攻城軍を出軍させ暗峠を越え郡山城に迫りました。豊臣秀頼軍は松明を掲げながらの夜間行軍で、筒井定慶軍は戦馴れしておらず、実兵よりも多くの兵に見え、3万兵の大軍と筒井定慶に報告したため、このような大軍では迎撃するのは不利に思えたのか、福住中定城へ早々に落ち延びました。これに「腑甲斐無し」と激怒したのは弟の筒井順斎で徹底抗戦を命じたが、総大将はすでに落延びており従う者は殆どおらず、自身もわずか4,5名の共の者と興福寺に落ち延びました。福住中定城で1000兵余りで防備を固めていた筒井定慶軍は、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、一戦もすることなく郡山城を捨てたことに後悔し、大坂城が落城してから3日後の同年5月10日、弟の筒井順斎に遺書を残し切腹したとされています。しかし、彼の最期については異説が多く、大坂夏の陣にて敗北した責任を負って自害したとする説の他に、自害と称して隠棲したとの伝承もあります。上記の辞世の句について、くちはに懸るというのは他人の噂になるという意味でしょう。他人に非難されたとしても、私には何の罪もないというのは、名誉を重んじる武士らしい言葉と言えます。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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