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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

なかなかに世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身のとがにして

今川真氏の辞世の句。今川氏真は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれたためその領国を受け継いだが、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。天文7年(1538年)、義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟の成立に寄与した。桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。『甲陽軍鑑』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の三浦義鎮(右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている。里村紹巴が永禄10年(1567年)5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も三条西実澄や冷泉為益が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。永禄11年(1568年)末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日、に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻)。12月12日、薩埵峠で武田軍を迎撃するため氏真も興津の清見寺に出陣したが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、駿府もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。遠江国にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。最期は慶長19年(1614年)12月28日、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟の一月長得が江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られた。

生半可に世の中や他人を恨んだりはするまい、時勢にあわなかった自分の罪なんだから。

今川真氏は普通大国を潰したバカ殿様の典型として書かれるが、実は歌道、蹴鞠、剣術に長けていたという逸話も残します。要するに趣味に溺れて、実務をないがしろにしたということでしょう。松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記していますが、これは国を統治する人間は過度に趣味に没頭してはならないという戒めです。真氏本人も最期には自分の過ちを理解し自責の念があったのか、辞世の歌でも反省しています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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