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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

腹いたや苦しき中に明けがらす

山岡鉄舟の辞世の句。山岡鉄舟は日本の武士・幕臣、政治家、思想家。爵位は子爵。剣、禅、書の達人としても知られる。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に異常なほどの才能を示す。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客。明治維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。また弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。禅にも参じて剣禅一如の追求を始め芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだ。幕臣として、清河八郎とともに浪士隊を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に任ぜられる。明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。

この句は初句を腹はってとする説もあります。山岡鉄舟は身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と当時としてはかなり大柄な体格な人でした。武術に突出した才能を見せた人でしたが、訓練は激しくまた身なりにも構わなかったので「ボロ鉄」「鬼鉄」と呼ばれていました。死ぬときも禅を組んだまま激痛を一晩中こらえて亡くなったそうですが、その時の様子を弟子が写生したものが今も残っています。句の方は剣、禅、書に通じていた人だけあって、なかなかとらえ難いですが、病苦の中に見た明けがらすとは何だったのでしょうか?
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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