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新・立命館大学戦史研究所

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今日の辞世の句 

空蝉は もとの裸に 戻りけり

立羽不角の辞世の句。立羽不角(たちば ふかく、寛文2年(1662年) - 宝暦3年(1753年)7月21日)は江戸時代中期の俳諧師。旧姓は橘。通称は定之助、平八。別号に遠山、千翁、松月堂、虚無斎、虚雲斎、南々舎、生風斎、温故知新斎。松永貞徳の流れを汲む岡本不卜門下で、貞門派を一歩進めてより通俗的な句風を志向した。自らは温故知新流を標榜したが、他派からは化鳥風と揶揄された。寛文2年(1662年)生まれる。両親の名や家業は不明。出生当初は産声もなく、全身蒼白だったため、死産と思われ小袖に包み放置されていたが、日暮れに漸く声を発したため、医者遊左好卜に助けられたという。当初遠山と号する。延宝2年(1674年)、松永貞徳の流れを引く貞門派の俳諧師岡村不卜に入門し、「牙有る物角無し」の心を以って不角と改号した。天和3年(1683年)5月岸本調和編『俳諧題林一句』に「糭頸青蠅蕀に止ッてけり」が現在確認できる最初の発句である。貞享4年(1687年)8月には浮世草子第一作『色の染衣』を刊行した。元禄4年(1691年)4月9日、師不卜を看取る。元禄3年(1690年)1月27日に前句付興行を開始、元禄6年(1693年)9月19日には月次発句興行を始め、以降間を開けず精力的に開催し、句集に纏めた。この時期には日本橋平松町南側(東京都中央区日本橋二丁目7番地付近)で書肆を営んでいる。不角の周りには主に地方出身の武家が集い、教養を織り込みながらも通俗的な句を趣向する独自の一派が形成された。元禄末年、夢枕に柿本人麻呂が現れて橘姓の下一字を略すよう促され、立羽姓を名乗った。元禄16年(1703年)4月9日、先師不卜の十三回忌に当たり、髪が薄く髷を結えなくなったこともあり剃髪した。大名など高位の武士との交流も繁くなった不角は、それに見合った肩書を嘱望するようになった。元禄16年(1703年)5月8日、備角の号で俳諧を嗜み交流があった備前岡山藩主池田綱政の参勤交代に伴い上京し、公家社会に顔が利いた綱政の後援により、7月23日遂に法橋の地位を賜った。道中の俳諧は『蠅帒』に纏められた。宝永頃には不角の高点付興行に句が集まらないようになった。代わって連句集や俳諧撰集を手懸けて自派の勢力の存続を図るとともに、自派を『籰纑輪前集』序巻で「温故知新流」と標榜し、『つげのまくら』において対抗勢力宝井其角一派の洒落風を批判するなど、自派の正当性の主張に重きを置くようになった。本書は同年談林派浮生『滑稽弁惑原俳論』によって批判を受け、宝永6年(1709年)松丁子『一言俳談』では「頭は猿の化鳥風」と揶揄されるなど、他派と激しく応酬した。享保初年にも『正風集』を編じて自らの「正風」を主張し、享保5年(1720年)蟠竜『俳諧とんと』によって批判されている。正徳5年(1715年)には兄弟子岸本調和を亡くし、自派を一人で負って立つこととなった。享保4年(1719年)2月14日、大火により自家版の版木を焼失した。享保後年には専ら歳旦集を手がけるようになる。享保12年(1727年)『享保十二丁未歳旦』では、門弟数千人に及んだとして、千翁と号した。享保15年(1730年)5月15日京に向け出発、中仙道を通り6月3日到着、28日法眼の位を賜った。この旅は『木曽の麻衣』『有磯海』に纏められた。享保末年からは息子等も独立し、自ら句集を出して、不角派の普及に務めた。宝暦3年(1753年)5月、体調を崩した。6月20日死を覚悟、翌日午刻死去した。辞世は「空蝉はもとの裸に戻りけり」他。築地本願寺内成勝寺に葬られた。現在の墓所は江戸川区東小岩万福寺。

江戸時代の俳諧の隆盛に伴って、各派閥間での激しい勢力争いが繰り広げられていました。形式ばった文学史だけをみていては、このような闘争の内実を知ることはありませんが、実際の文芸は過酷な生存競争の上に成り立っているものです。不角はすでに落ち度となっていた貞門派の中にあって、通俗的な句風を推し進めることにより、その命脈を保とうとしました。彼は連句集や俳諧撰集を企画したり、宝井其角一派の洒落風を批判するなど、世間の耳目を集めるのに奮闘し、其角没後その洒落風を継承したとされる沾徳派とならんで江戸の俳壇に重きをなしました。最終的に平明な浮世調の作風は広く受け入れられ、門弟は数千人を数えたそうです。とはいえ、彼のそういった取り組みも現在ではほとんど忘れられ、芭蕉や蕪村のような名声を今に伝えることはできませんでした。上記の句にある「空蝉」とは、もちろん蝉の抜け殻のことですが、元々の意味は古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもので、この世に生きている人間もしくは現世のことです。正に辞世の句の通り、彼も彼の奮闘も全ては無常の理の中に消えていったようです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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