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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

味く喰ひ暖かく着て何不足 七十ななつ南無阿弥陀仏

旨いもの食って暖かいもの着て何一つ不自由はない 七十七歳南無阿弥陀仏

鹿津部真顔の辞世の句。鹿津部 真顔(しかつべの まがお、宝暦3年(1753年) - 文政12年6月6日(1829年7月6日))は、江戸時代後期の狂歌師・戯作者。鹿都部真顔とも書く。通称は北川 嘉兵衛(きたがわ かへえ)。別号に狂歌堂(きょうかどう)・四方 真顔(よもの まがお)・四方 歌垣(よもの うたがき)などがある。戯作名は恋川 好町(こいかわ すきまち)。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋で、大家を業ともしていた。初めは、恋川春町に師事して、恋川好町と称し、黄表紙を描いた。天明年間(1781年-1789年)初期に四方赤良(大田南畝)に入門して頭角をあらわし、天明4年、数奇屋連を結成した。狂歌の四天王の一人で、狂歌師を職業化し、狂歌という名称を俳諧歌と改めた。全国的に門人を有し、やはり狂歌四天王の一人である宿屋飯盛(石川雅望)と狂歌界を二分した。黄表紙「元利安売鋸商内(がんりやすうりのこぎりあきない)」、狂歌撰集「類題俳諧歌集」など、九十数冊の著作がある。また、『年始物申 どうれ百人一首 (ねんしものもう どうれひゃくにんいっしゅ)』を編纂している。これは、百人の狂歌師が江戸の正月を詠んだもので、半丁に四首の狂歌が記されて、その狂歌一首毎に挿絵を添えた年始百人一首となっている。

鹿津部真顔は歌四天王の一人に数えられる、江戸時代を代表する狂歌師です。真顔は、はじめは元木網門下で「落栗連」に属していましたが、その後、四方赤良(大田南畝)の「四方側」に入り、さらに同年中に算木有政らと「スキヤ連」を結び、主宰者となりました。石川雅望(いしかわまさもち、宿屋飯盛(やどやのめしもり))、頭光(つむりのひかる)、馬場金埒(銭屋金埒(ぜにやのきんらち))らと共に狂歌四天王と呼ばれるようになり、寛政3(1791)年に冤罪により江戸払いとなった飯盛に対し、真顔は寛政6年に赤良から四方姓を譲られ、四方真顔と号して、以後没するまで狂歌壇の雄たる存在でした。狂歌は天明振りをよしとする飯盛に対して、真顔は鎌倉・室町期の狂歌こそが本来の姿であるとして,、歌に接近した狂歌=俳諧歌を提唱し、以後飯盛との間には確執が起こりました。国学者でもあった飯盛は、意外にも狂歌の軽妙さと諧謔性を重んじ、この二人は文化文政時代の狂歌壇を二分する勢力となりました。真顔は狂歌の点料で生計をたてた最初の人でもあり、化政期には門人は3000人といわれ、その勢力範囲は北は陸奥から南は九州にまでおよんでいました。しかし、その性格尊大なところがあり、文政11(1828)年に京都の縉紳家より宗匠号を贈られてからは水干烏帽子をつけ、堂上的な態度で人に接したそうです。思うに本職が汁粉屋であった真顔は、文学的な素養がなかったために、自身が文学的な権威となることを望み、和歌へと接近し、最終的に堂上歌壇のような態度を取ったように思われます。そのことは、同じような境遇の狂歌師からは尊敬を得ましたが、同時に狂歌そのものの面白みを削いでしまい、段々と一般からは親しまれなくなっていきました。晩年は家庭的にも恵まれず、貧窮のうちに没し、万巻の蔵書は散逸してしまいました。上記の辞世の狂歌は、そのような自身の境遇を皮肉った上で、何の不満もなかったと強がっているのでしょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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