09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

(「今日の昼、十二時に自分は死ぬだろう」と予言したが、十二時が過ぎてしまって)

命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな

蔦屋重三郎の最期の言葉。蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日(1750年2月13日) - 寛政9年5月6日(1797年5月31日))は江戸時代の版元(出版人)である。朋誠堂喜三二、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」ともいわれる。狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し、歌麿とともに吉原連に属した。父(丸山氏)は江戸の吉原で遊廓の勤め人だったという。寛延3年(1750年)、重三郎も吉原に生まれ、のちに喜多川氏の養子になった。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、はじめは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から出版業に関わっていった。安永9年(1780年)に売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのを手始めに本格的に出版業を拡大。これ以後、洒落本や狂歌本などのヒット作を次々に刊行し、天明3年(1783年)に一流版元の並ぶ日本橋に進出。浮世絵では歌麿の名作を世に送った。しかし寛政の改革により風紀取締りが厳しくなると、寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され重三郎は過料、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。その後寛政6年(1794年)には写楽の役者絵を出版した。寛政9年(1797年)に48歳で没。脚気であったという。面倒見がよく、また人の才能を見抜く術を心得ていたといわれている。写楽をはじめ曲亭馬琴、十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は数多い。

蔦屋重三郎は、江戸の文化を裏から支えた版元の大立者です。彼の職業を今の感覚で言えば、出版社兼プロデューサーといったところでしょうか。重三郎の元には朋誠堂喜三二、山東京伝、喜多川歌麿、東洲斎写楽らの名だたる文化人が集まりました。彼は狂歌に興じた文化人でもあり、狂歌がひとつの社会現象と化したいわゆる天明狂歌の頃には、吉原を中心にした吉原連という狂歌結社の中心人物となりました。これは趣味と実益を兼ねており、彼は狂歌師・戯作者の活動の場をお膳立てすることによって作品の出版を独占的に手がけ、多くの作品を世に送り出しました。寛政改革の余波により狂歌・戯作壇が徐々に停滞し始めると、書物問屋に加入して営業内容の多角化を図り、寛政3(1791)年刊山東京伝作の洒落本三部出版しましたが時の風俗矯正政策に抵触し咎めを受けて財産半減の処分を受けてしまいました。その後も寛政6年から7年にかけて、東洲斎写楽の錦絵を140点余刊行するなど、錦絵や書物系統の書籍の出版などに注目すべき仕事を残しました。書店・レンタルビデオ大手のTSUTAYAは、「現代の『蔦屋』になる」との創業者の意志からこの名になったそうで、蔦屋重三郎とは直接の関係はありません。上記の最期の言葉は、自分の死期を性格に悟ることの難しさをユーモアも交えて述べたのだと思います。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://ufononatu.blog10.fc2.com/tb.php/938-58d3579b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。