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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

弓張りの月は端山に影落ちて 茨の里の露と消え行く

佐倉惣五郎の辞世の句。佐倉惣五郎(さくら そうごろう、慶長10年(1605年)? - 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。姓は木内氏、俗称は宗吾。下総国印旛郡の堀田領内佐倉城下に生まれ、本名を木内惣五郎という。肥後国五家荘には、五家荘葉木の地頭・緒方左衛門の子で、下総の木内家の養子になったという伝承がある[1]。年貢の取り立てが年々厳しくなるにつれて、佐倉を代表して殿様への直訴を申し出た。江戸時代の公津村は佐倉藩領で、惣五郎は藩主である堀田氏の苛政を、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかった。このため惣五郎は、1653年(承応2年)、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴した。その結果、藩主の苛政は収められたが、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となる一方、男子も死罪となってしまった。その後、惣五郎は堀田氏に祟るようになり、堀田氏は改易となったという。しかし、こうした伝承がある一方、資料上では惣五郎が一揆や直訴を行ったという記録はない。江戸時代中期以降、『地蔵堂通夜物語』や『東山桜荘子』などの物語や芝居に取り上げられ、義民として知られるようになった。『東山桜荘子』初演の8年後の安政6年(1859年)に起こった伊那の南山一揆の指導者小木曽猪兵衛は佐倉惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織したと言われている。また佐倉の信奉者は多く、幕末期から明治時代の思想家である福澤諭吉も、「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げている。惣五郎の逸話をモデルにした作品として、第17回小学館文学賞を受賞した児童文学短編『ベロ出しチョンマ』がある。作者である斎藤隆介自身が惣五郎を逸話をもとにした創作であると解説している。

佐倉惣五郎は『ベロ出しチョンマ』の逸話をもとになった人物です。この話を知っている人なら分かると思いますが、彼は代表越訴型一揆における典型的な義民です。代表越訴型一揆とは、村役人などの有力な百姓が、村人たちの代表として越訴を行い、村の要求を獲得しようとする形式の一揆のことです。越訴を現在の言葉で分かりやすく言い換えると直訴に当たります。近世においては、訴訟の法に定められた手続を乱す違法行為一般を「越訴」と呼び、私的な相論とともにこれを禁じられていました。訴訟を起こす場合は、村役人・町役人を通じて(奥印を受けて)、所属する大名や代官に訴状を提出し、江戸幕府への訴えを要する場合には領主の添簡が必要とされ、これがなければ「差越願」・「筋違願」として違法とされていました。ただし直訴は一般的な認識と異なり、法定刑は急度叱(厳重注意)に過ぎず、直訴行為自体が処罰対象となったものはそれほど多くはありませんでした。領主や代官の非を訴えた場合であっても、原告勝訴であれば死罪にならず、義民とされた人々が極刑に処された理由としては徒党を組んだことが問題視されたものであり、越訴・直訴そのものが直接の原因ではないことには注意を必要とします。とはいえ、直訴を行う者は命がけであり、佐倉惣五郎や杉木茂左衛門のような直訴を行った人の多くは処刑されています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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