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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

つゆをだにいとふ大和の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ

岩亀楼亀遊の辞世の句。岩亀楼亀遊(がんきろう きゆう 生年: 弘化3? (1846)~没年: 万延1? (1860))は、幕末の遊女。江戸深川の町医大田正庵の娘など諸説ある。『温古見聞彙纂』によれば8歳で吉原に売られ、15歳で遊女として出たが,のち品川岩槻屋をへて横浜港崎遊郭の岩亀楼へ移る。ここでアメリカ商人イルウスに見染められるが異国人に抱かれることを嫌い「つゆをだにいとふ大和の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」の辞世を残して自害して果てたという。尊皇攘夷派の学者大橋訥庵(一説に弟子椋木京太郎)の創作という説もあり、実在人物かどうか疑わしいが、当時の人々がその話を美談として受け入れたのは事実である。

亀遊は実在したのか疑わしい人物ですが、彼女が自害する物語は、対外排斥主義的なナショナリズムと結びついて世間に受け入れられました。当時の日本には羅紗緬と呼ばれる、外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性が数多くいました。文久2年(1862年)神奈川奉行所の調べでは、羅紗緬鑑札の所持者は500人おり、文久2年から慶応2年頃までには異人館通いの羅紗緬が2400〜2500人にも増えたそうです。亀遊がいたとされる岩亀楼という遊郭は、幕末期に横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使から遊女町開設の要請により、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田(現在の横浜公園)に建設されました。岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができませんでした。亀遊の物語は、1970年に婦人公論で発表された有吉佐和子による短篇「亀遊の死」と、吉が自身で戯曲化した『ふるあめりかに袖はぬらさじ』により有名となりました。この戯曲は2007年に坂東玉三郎 (5代目)の手によって歌舞伎として上演されています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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