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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

( 譫妄状態の中、副大統領ジョン・タイラーに向かって)

Sir, I wish you to understand the true principles of government. I wish them carried out. I ask nothing more.

閣下、あなたが政府の真実の原則を理解していることを願います。私はそれらが実行されることを願います。他に尋ねることはなにもありません。

ウィリアム・ハリソンの最期の言葉。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(英語: William Henry Harrison, 1773年2月9日 - 1841年4月4日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家で、第9代アメリカ合衆国大統領である。1811年のティピカヌーの戦いでの勝利で名声を獲得したため、「ティピカヌー」あるいは「オールド・ティピカヌー」の愛称で呼ばれた。他の多くの初期の大統領と同様に、バージニアのプランテーション所有者だった。68歳で大統領に就任したもの、在任期間わずか1ヶ月で死去した。また、アメリカ独立宣言の前に生まれた(つまり生まれながらの合衆国市民でない)最後の大統領であった。1773年2月9日にバージニア州チャールズシティ郡のバークレー・プランテーションで生まれた。ベンジャミン・ハリソンとエリザベス・バセット夫妻の7人の子供の末子で、3番目の息子だった。一家はバークレー・プランテーションでも著名な政治家一家で、父親は大陸会議で独立宣言へ署名を行い、1781年から84年までバージニア州知事を務めた。兄のカーター・バセット・ハリソンはバージニア州選出下院議員だった。1787年、ハリソンは14歳でハンプデン=シドニー・カレッジに入学した。彼は1790年まで同校で学び、ラテン語に精通し、基礎的なフランス語を習得した。学校で宗教復興の動きが起こり、父親は彼を退学させた。その後サウサンプトン郡の学校で短期間学び、そこで奴隷制度反対のクエーカーとメソジストに関わるようになったといわれる。奴隷制度を支持していた父親は腹を立て、ハリソンをフィラデルフィアに移させた。フィラデルフィアでハリソンはロバート・モリスの家に下宿した(そこで得られる医学的訓練のためだったといわれる)。1790年にペンシルベニア大学に入学、ベンジャミン・ラッシュ博士の下で内科を学んだ。ハリソンが彼の伝記作家に説明したように、彼は勉学を楽しんではいなかった。フィラデルフィアに着いて間もない1791年に父親が学費も残さずに死去したため、ハリソンはモリスの元に置き去りにされた格好になった。18歳の時、ハリソンは陸軍に入隊しオハイオ州に派遣された。ハリソンは白人の西部侵略に反発するインディアン部族連合軍を撃破。米英戦争でもイギリスとショーニー族の連合軍に勝利し、この活躍で白人社会で一躍国民的英雄となった。その後、ハリソンは政治家に転じ、1840年アメリカ合衆国大統領選挙でホイッグ党から立候補。当時のアメリカ大統領選挙は現在と異なり、候補者が選挙活動をすることを潔しとしない風潮があった。しかしハリソンはこの慣例を破り、派手なパレードや華麗なパーティーを大々的に開き、政治的発言は一切禁じた上で、自身の「戦争の英雄」というイメージを有権者に浸透させるのに成功した。ハリソンが就任宣誓を行なった1841年3月4日は非常に寒く風が強い日だった。しかしハリソンはコートを着用せず、ほぼ二時間近いアメリカ史上で最長の就任演説を行った。これでハリソンは風邪を引き、それで肺炎へこじらせ、1ヶ月後に死去した。ハリソンは在職中に死去した初の大統領であり、また任期が最短(31日)の大統領である。ハリソンの死去に伴い副大統領ジョン・タイラーが大統領に昇格した。

ウィリアム・ハリソンは、アメリカ合衆国大統領の最短任期記録(31日)の保持者です。この記録は今後も中々破られることはないでしょう。また、ハリソンの孫、ベンジャミン・ハリソンは1889年に第23代大統領に就任したため、アメリカ史上ウィリアムとベンジャミンは唯一の祖父と孫で大統領に就任した例でもあります。1800年にハリソンは新しく作られたインディアナ準州の知事となり、アメリカ植民地政策の拡張のために、インディアンの土地に対する所有権を確保しようとしました。ハリソンはアメリカ・インディアンと多くの土地の割譲に関する条約交渉を行い、1809年9月30日のウェイン砦の条約で完結させていました。それに激怒したショーニー族の酋長テカムセの呼びかけで、インディアン部族同盟が蜂起しテカムセの戦争が始まりました。この戦争は一般的に1811年のティピカヌーの戦いで終わったとされていますが、この闘いを指揮したのがハリソンでした。ハリソンはティピカヌーの戦いがテカムセの同盟に致命傷を負わせたと主張し、ハリソンはこのことで、「ティピカヌー」という渾名を貰いました。テカムセはさらに抵抗を続け、1812年に米英戦争を始めると、テカムセはカナダのイギリス軍に味方しましたが、ハリソンはこの戦いでも勝利し、一躍アメリカの国民的英雄となり1840年の大統領選挙で勝利しました。さて、「戦争の英雄」というイメージを有効に活用して大統領にまで登り詰めたハリソンでしたが、その最期はあっけないものでした。彼は1841年3月4日の極寒の日に、二時間近いアメリカ史上で最長の就任演説えお行い、それが元で風邪を引き肺炎を起こして亡くなりました。自身の就任演説のせいで死んだ大統領は、人類史上滅多にいないのではないでしょうか。上記の最期の言葉は、副大統領ジョン・タイラーに対して離されたものですが、ハリソンの死去に伴いタイラーが大統領に昇格しました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

(新聞を読んでくれた妻に向かって)

That's good. Read some more.

それは良い。もういくつか読んでくれ。

ウォレン・ハーディングの最期の言葉。ウォレン・ガマリエル・ハーディング(Warren Gamaliel Harding, 1865年11月2日 - 1923年8月2日)は、第29代アメリカ合衆国大統領。大統領に選ばれた最初の現職上院議員であり、在職中に死去した6人目の大統領。オハイオ州選出の上院議員であったハーディングは、影響力を持つ新聞を出版し、政界入りする前は有能な演説家であった。彼はオハイオ州議員(1899 - 1903)、オハイオ州副知事(1903 - 1905)を歴任した。ハーディングの保守主義、柔和な物腰、そして『敵を作らないでください』という選挙戦略は、彼を1920年の共和党全国大会における妥協選択の候補とした。第一次世界大戦の余波の中で行われた大統領選キャンペーンで、彼は国の「正常」への復帰を約束した。この「アメリカが一番」というキャンペーンは、外国の影響から独立した工業化と強い経済を促進した。ハーディングは、セオドア・ルーズベルト大統領以来議会を支配していた進歩主義から離脱した。1920年の選挙で彼は、副大統領候補のカルビン・クーリッジと共に、アメリカ史上一般投票における得票率の最大差(60.36%対34.19%、26.2ポイント差)で民主党候補でありオハイオ州の仲間であったジェームズ・M・コックスを破った。ハーディングは大統領として、「オハイオ・ギャング」と呼ばれた友人や政治上の貢献者に対して財政的に大きく報いた。彼の任期は結局スキャンダルと不正が瀰漫することとなった。彼の閣僚1名、被任命者数名が裁判で有罪となり、贈収賄および連邦政府に対する背任のため刑務所に送られた。しかしながら、ハーディングは何名かの有能な人物も閣僚として任命した。外交政策では、ハーディングは国際連盟への加入を拒み、ドイツおよびオーストリアと単独講和条約と結び、第一次世界大戦を正式に終了させた。彼はまたワシントン会議を開催し、世界の海軍力削減を促進し、国際法廷へのアメリカ合衆国の参加を主張した。内政面では、ハーディングは合衆国における最初の児童福祉プログラムに署名し、坑夫や鉄道従事者のストライキに対応した。アメリカ合衆国の失業率はハーディングの任期中に半減した。1923年8月にハーディングはアラスカ旅行からの帰路、カリフォルニアで病床に伏し死去した。彼の後任は副大統領のカルビン・クーリッジが引き継いだ。大統領とし、議会にあまり介入せず、職務も閣僚に丸投げすることもあり、また任期中にいくつかのスキャンダルがあったため、その死後ハーディングは「アメリカ史上最も成功しなかった大統領」として評されたが、近年は評価が見直されている。

ウォレン・ハーディングは、任期中のスキャンダルが多かったことで有名な大統領です。ウォレン・ハーディングは1865年11月2日にオハイオ州コルシカ(現在のオハイオ州ブルーミング・グローヴの近く)で、ジョージ・トライアン・ハーディング博士とフィービー・エリザベス(ディッカーソン)ハーディング夫妻の間に生まれました。少年時代はアレクサンダー・ハミルトンとナポレオン・ボナパルトに憧れていたそうで、これは後の彼の政治思想にも多少の影響を与えているかもしれません。学生時代に新聞の出版と運営を学び、経営失敗した「マリオン・デイリー・スター」紙を買収して、郡内でも最大の新聞にまで育て上げました。その後、ハーディングは、オハイオ州議会議員 (1899-1903)、オハイオ州副知事 (1903-1905) および上院議員 (1915-1921) を務め、1921年、好調な景気の流れに乗り大統領に就任しました。選挙に勝利するためハーディングは自らの知己の多くを重要な政治的地位に任命し、「オハイオ・ギャング」(チャールズ・ミーの同名の著書で使用された言葉)として知られた彼らは、自らの権限を政府からの搾取に使用しました。任期中にスキャンダルと不正が横行しましたが、ハーディング自身が彼らの不法行為をどのくらい認識していたかは不明瞭ではあります。最も有名なスキャンダルはティーポット・ドーム事件で、大統領がからむスキャンダルとしては、ウォーターゲート事件と双璧をなすといわれています。この事件は、内務長官のアルバート・B・フォールが関与し、彼は賄賂の収受と違法な融資の見返りに国有油田を取引相手に貸し出したことで有罪判決を下されました。同事件はハーディングの死後数年間国家を揺さぶることとなりました。さらに、彼のもっと個人的な醜聞として、黒人混血説がありますが、これは全く根拠のない話です。その全く逆の醜聞として、ハーディングがクー・クラックス・クランに関係していたという説も根強く語られていますが、これも何の根拠もありません。ハーディングは妻と仲が悪かったので、今日でも夫人による毒殺説が広く語られていますが、これも事実として信じるには無理があります。さて、このような醜聞の多いハーディングですが、政治家としては予算会計法を成立させ、今日の年度予算案の審議システムを作ったり、ワシントン会議を開き「国際規模の軍縮」を口実に海軍戦力を制限したりもしています。また、所得税の累進性を弱め富裕層への大規模な減税を実施し、貿易では保護貿易政策を取り現在では考えられない程の高率な関税をかけるなど、富裕層を優遇し保護貿易政策を取りましたが、同時に合衆国における最初の児童福祉プログラムに署名し、坑夫や鉄道従事者のストライキに対応するなどの政策も行いました。好景気に見舞われた幸運もあって、合衆国の失業率はハーディングの任期中に半減しました。これにより、上記の通りハーディングは「アメリカ史上最も成功しなかった大統領」として評されていましたが、近年は評価が見直されています。ハーディングの最期は、全国遊説中にアラスカで自らの知らなかった不法行為が詳述された長い報告書を受け取り、そのショックでなのか帰途、カナダのブリティッシュコロンビア州を通過している間に、彼は重い食中毒となりシアトルで心機能不全で倒れました。サンフランシスコのパレス・ホテルに着くと彼は肺炎を発症し、1923年8月2日の午後7:35に痙攣を発し、亡くなりました。医師団は心隔壁破裂あるいは脳梗塞と診断している。57歳没。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Are the doctors here? Doctor...my lungs.

ここに医者はいますか? お医者様……私の肺が。

ベンジャミン・ハリソンの最期の言葉。ベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison, 1833年8月20日 - 1901年3月13日)は、第23代アメリカ合衆国大統領。祖父は第9代大統領ウィリアム・H・ハリソン。ハリソンはオハイオ州ノースベンドに生まれ、21歳のときにインディアナ州インディアナポリスに移り住み、そこで政治家として成功した。南北戦争の間、彼は准将としてカンバーランド陸軍の第20軍に所属した。戦後彼はインディアナ州知事選に出馬したが落選した。その後同州から上院議員に選出された。1888年、ハリソンは共和党大統領候補に選出され、民主党の現職グロバー・クリーブランドを破って大統領に当選した。その任期はマッキンリー関税とシャーマン法を含む経済政策および、初めて10億ドルに達した連邦政府の年間支出で特徴付けられる。民主党は「1000000000ドルの議会」を攻撃し、その材料に不評を囲った高率関税に伴う問題を使用した。そして1890年の中間選挙および1892年の大統領選両方で共和党は敗北する。彼はまた、6つの州が合衆国に再加入したときの大統領であった。1892年の大統領選ではクリーブランドに敗れ、再選に失敗したハリソンはインディアナポリスでの私生活に戻った。彼は後にベネズエラ共和国とイギリスの国際裁判でベネズエラの弁護を担当した。1900年に彼は裁判に関連してヨーロッパを訪問し、短期間の滞在の後にインディアナポリスに戻り、翌年インフルエンザからの合併症で死去した。彼はインディアナ州から選出された唯一の大統領であり、祖父も大統領であった唯一の大統領である。ハリソンの一族は最初にバージニアに移住した中にあった。新世界でのその起源は、1630年にジェームズタウンに到着したイギリス人、ベンジャミン・ハリソンまで遡る。後に大統領となるベンジャミンは、1833年8月20日にオハイオ州ハミルトン郡、ノースベンドでジョン・スコット・ハリソン(後にオハイオ州から連邦下院議員に選出)とエリザベス・ラムゼイ・アーウィンの8人の子供の2番目として生まれる。ベンジャミンはウィリアム・ヘンリー・ハリソン大統領の孫であり、独立戦争の指導者でありバージニア州知事であったベンジャミン・ハリソン5世の曾孫であった。祖父が大統領に選出されたとき、ハリソンは7歳であったが、彼は就任式には出席しなかった。ハリソンの一家は歴史を持つ名家であったが、彼は裕福な環境で成長することはなかった。ジョン・スコット・ハリソンの農業所得の大半は子供の教育に費やされた。わずかな収入にもかかわらず、ハリソンの少年時代は野外での釣りや狩猟で費やされ、彼はそれを楽しんだ。ベンジャミン・ハリソンが受けた幼年期の公教育は、家の近くにある教室が一つだけの学校で行われたが、彼は後に大学進学のため家庭教師から教育を受けた。ハリソンと兄弟のアーウィンは1847年にシンシナティ近くのファーマーズ・カレッジに入学した。ハリソンは同校に2年間通学した。1850年に彼はオハイオ州オックスフォードのマイアミ大学に転学し、ここでファイ・デルタ・シータのメンバーとなり、1852年に卒業した。マイアミでの同窓生にはジョン・アレクサンダー・アンダーソンとホワイトロー・リードがいた。後にアンダーソンは連邦下院議員を6期務め、リードはハリソンの副大統領候補となった。マイアミで学ぶ間、ハリソンは歴史と政治経済学の教授であるロバート・ハミルトン・ビショップに大きく影響を受けた。マイアミで彼は長老派教会に加わり、自らの母のように死ぬまでそのメンバーであった。大学を卒業すると彼はシンシナティのストーラー・アンド・グウィン法律事務所で法律を学んだが、それを終える前に結婚のためオックスフォードに戻った。ファーマーズ・カレッジ在学中にハリソンはキャロライン・ラヴィニア・スコットに出会った。彼女は学長であり長老派牧師のジョン・ウィザースプーン・スコットの娘であった。1853年10月20日に彼らはキャロラインの父親の教会で結婚した。夫妻の間には2人の子供、ラッセル・ベンジャミン・ハリソン(1854年8月12日 - 1936年12月13日)およびメアリー・「マミー」スコット・ハリソン・マッキー(1858年4月3日 - 1930年10月28日)がいた。1853年の結婚の後、ハリソンは父親の農場に戻りそこで法律の学習を終えた。同年、叔母の死によって800ドルを引き継ぎ、それを元に翌54年インディアナポリスに転居した。彼はインディアナポリスで法曹界入りし、ジョン・H・レイのオフィスで弁護士を開業した。同年インディアナポリスの連邦裁判所の廷吏となり、1日あたり2.50ドルを稼ぐようになった。彼は判決の発表に責任を負うこととなった。インディアナポリスでハリソンはユニバーシティ・クラブ(私的な紳士クラブ)の初代会長となり、またインディアナポリスのファイ・デルタ・シータ卒業生クラブの初代会長となった。ハリソンはホイッグ党員の家庭で成長し、若年期には自らがホイッグ党の支持者であった。彼は共和党に結成後間もない1856年に参加し、同年大統領候補のジョン・C・フレモントの支援活動を行った。彼は同じ選挙でインディアナポリス市の代理人に当選し、400ドルの年俸を得ることとなった。1858年、ハリソンはウィリアム・ウォレスと共に法律事務所、ウォレス・アンド・ハリソンを開業した。ハリソンは1860年、インディアナ州最高裁判所の報告官に共和党候補として立候補した。これが彼の最初の政治への進出であった。この職は政治的なものではなかったが、彼は党の綱領の活発な支持者であった。選挙戦で彼は共和党を代表して、民主党知事候補で後の副大統領のトーマス・A・ヘンドリックスと討論した。事務所の共同経営者のウォレスが1860年に郡書記に選出されると、ハリソンはウィリアム・フィッシュバックと共にフィッシュバック・アンド・ハリソンを開業し、事務所は彼が陸軍に入隊するまで続けられた。ハリソンは南北戦争中に准将として北軍に勤務し、1865年に除隊した。1864年10月に州最高裁判所の速記係に再選され、4年間務めた。彼は1876年にインディアナ州知事選に共和党候補として出馬したが、落選した。彼は1879年にミシシッピ川委員会のメンバーに任命され、1881年3月4日から1887年3月3日まで同職を務めた後、共和党の上院議員として選出された。彼は沿岸地方への輸送路委員会委員長(第47議会)および準州委員会委員長(第48議会、第49議会)だった。ハリソンは1888年に大統領に選出された。大統領選挙の一般投票では、ハリソンが約9万票クリーブランドより少ない得票だったが、選挙人選挙では233票対168票で勝利した。ハリソンの政権で成立した法律で特筆すべきが「マッキンリー関税法」と「シャーマン購銀法」である。マッキンリー関税法により輸入品に対する関税は50パーセント以上に引き上げられ、国内市場は国産製品の土壇場になり逆に外国製品の価格は高騰した。シャーマン購銀法は、政府の毎月450万オンスの銀購入が義務化された。また、「シャーマン反トラスト法」を成立させ、一部企業による独占資本に制限を加えようとしたが、大資本に牛耳られた連邦議会により骨抜きにされた抜け穴だらけの所謂ザル法として成立した。1892年にも再選を目指したが、このときはクリーブランドに敗れた。公職を退いた後、ハリソンはインディアナに戻った。1895年7月から1901年3月までハリソンはパデュー大学の評議員を務めた。大学の寮、ハリソン・ホールは彼に因んで命名された。1896年に彼は前妻の姪で25歳年下のメアリー・スコット・ディミックと再婚した。ハリソンの成人した子供、当時41歳のラッセルと38歳のメアリーは結婚に反対し、結婚式に出席しなかった。ハリソンとメアリーは娘のエリザベス(1897年2月21日 - 1955年12月26日)をもうけた。1899年にハリソンはハーグで開催された第一回万国平和会議に参加した。彼は連邦政府と大統領職に関する一連の記事を執筆し、1897年に「This Country of Ours」のタイトルで出版された。1894年の数ヶ月間、彼はカリフォルニア州サンフランシスコを訪問し、スタンフォード大学で法律学の講義を行った。1896年には共和党員の何人かの友人が再び大統領選に出馬するよう彼を説得しようとしたが、彼はそれを断り公然にウィリアム・マッキンリーを支持し、応援演説のために国中を旅行した。1900年、彼はベネズエラとイギリスの間の境界論争で、ベネズエラ共和国の弁護士を務めた。両国はベネズエラと英領ギアナ間の国境に関して争った。国際法廷での裁判が同意され、ベネズエラ政府は代理人としてハリソンに依頼を行った。彼は法廷で論争しながら、800ページの要約を作成し、パリに赴き法廷で25時間以上を過ごした。彼は訴訟に敗北したが、法的に認められた主張によって国際的な名声を得た。厳かな長老政治家として過ごした後、ハリソンは1901年2月に重い風邪を発症した。蒸気吸入による治療にもかかわらず、その容体は悪化し、1901年3月13日水曜日、自宅においてインフルエンザと肺炎のため死去した。67歳であった。ハリソンはインディアナポリスのクラウン・ヒル墓地に埋葬され、2人の妻の間で眠る。

ベンジャミン・ハリソンは祖父も大統領であった唯一の大統領です。彼の祖父であるウィリアム・ハリソンは就任演説の一ヶ月後に風邪を引き、それで肺炎を起こして亡くなった悲運の大統領で、最短任期期間(31日)の記録を打ち立てました。さて、孫のベンジャミンについてですが、長子をベンジャミンと命名するのはハリソン家の伝統でした。ベンジャミン・ハリソンの政策として重要なのは、マッキンリー関税とシャーマン法です。繁栄のための公式として高率輸入関税をかけるマッキンリー関税法と、反トラスト法であるシャーマン法を成立させました。退任後はスタンフォード大学で法律学ながら、厳かな長老政治家として過ごし、祖父と同じく風邪から肺炎を起こして亡くなりました。享年67歳。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

There is but one reliance.

ほんの1つのよりどころがある。

マーティン・ヴァン・ビューレンの最期の言葉。マーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren, 1782年12月5日 - 1862年7月24日)は、アメリカ合衆国の第8代大統領。大統領職の前には第8代副大統領および第10代国務長官を務めた。オールド・キンダーフックの愛称で呼ばれた。最初の独立宣言署名後に生まれた大統領であり、最初の非アングロ・サクソン系の大統領であり、第一言語が英語ではなかった(オランダ語だった)唯一の大統領。民主党の最初の主催者でもあった。ヴァン・ビューレンは再選を逃した3人目の大統領となった。アンドリュー・ジャクソンの国務長官と副大統領を務め、ニューヨーク州におけるジャクソニアン・デモクラシーの組織構造を築き上げたことにおいて重要な人物だった。しかし大統領として彼は経済問題に悩まされ、その任期は1837年の恐慌に翻弄されることになった。さらにアルーストック戦争とキャロライン事件とを通じて、イギリスとその植民地であるカナダとの関係が緊張した。これらが直接彼の執政によるものだった否かは意見が分かれるところだが、いずれにせよヴァン・ビューレンは4年後の1840年の大統領選で敗退することになった。その後1848年の大統領選にも自由土地党の大統領候補として出馬したが、このときは泡沫候補で終わっている。ヴァン・ビューレンは、1782年12月5日にニューヨーク州の州都オールバニの25マイル南に位置するキンダーフックの村で、20人兄弟の3番目として生まれた。彼の5世祖父のコーネリスは1631年にオランダから移住した。マーティンの父親エイブラハム・ヴァン・ビューレン(1737年2月17日 - 1817年4月8日)は、農夫であり評判の居酒屋の主人であった。父親は6名の奴隷を所有し、アメリカ独立戦争を支持、後にはジェファソニアン・リパブリカン党に入党した。母親のマリア・ホーズ(1747年2月27日 - 1817年2月16日)は前夫との間に3人の子どもがいた。ヴァン・ビューレンはキンダーフックの粗末な学校で基本的な教育を受け、その後キンダーフック・アカデミーとワシントン・セミナリーでラテン語を学んだ。彼は作文と話法に優れていた。14歳までに基礎教育を終えると、1796年にキンダーフックの著名な連邦党員の判事であるフランシス・シルベスターのオフィスで法律を学び始める。シルベスターの元で6年を過ごし、見習い期間の最後の一年をウィリアム・ピーター・ヴァン・ネス(1778年 - 1826年)のニューヨークのオフィスで過ごした。1802年に学業を終えると、翌1803年に法曹界入りし、25年にわたって弁護士業を継続した。ヴァン・ビューレンは1807年2月21日にキャッツキルで幼なじみで遠縁のハンナ・ホーズと結婚した。ヴァン・ビューレンと同じく彼女はオランダ系で、その話し方にはオランダ語のアクセントが残っていた。夫妻は5人の息子と1人の娘をもうけた。エイブラハム(1807年 - 1873年)は士官学校を卒業し軍人となった。ジョン(1810年 - 1866年)はイェール大を卒業し、ニューヨーク州検事総長となる。マーティン・ジュニア(1812年 - 1855年)は父親の秘書を務め、結核により早世するまで父親の論文を編集した。ウィンフィールド・スコット(1814年生、同年死去)は生後間もなく死亡し、スミス・トンプソン(1817年 - 1876年)は父親が大統領職にあった間、特別アシスタントを務めた。彼らの娘は死産であった。12年間の結婚生活の後、ハンナ・ヴァン・ビューレンは結核に罹患し1819年2月5日に35歳で死去した。マーティン・ヴァン・ビューレンはその後決して再婚しなかった。ヴァン・ビューレンは弁護士業で財をなし、政界入りの道を開いた。1800年以降のニューヨーク政界では、選挙においてトーマス・ジェファーソンとフェデラリストが没落し、共和党は3つの党派、ジョージ・クリントン、ロバート・リヴィングストン、アーロン・バーそれぞれの支持者に分裂していた。1799年以後、フェデラリストはこれらのグループの1つあるいは2つの連合によって支配されていた。ヴァン・ビューレンはクリントン支持派と連合し、1808年から1813年までコロンビア郡の代理人を務めた。また、ニューヨーク上訴裁判所の修正法廷のメンバーとして1847年まで務めた。役人勤めを経て、1812年にニューヨーク州議員、1821年にニューヨーク州選出上院議員を経て1828年にはニューヨーク州知事に就任。同年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソンを強力にバックアップし、その論功行賞で国務長官に就任した。ジョン・カルフーン副大統領夫人、フローリデ・カルフーン(英語版)がジョン・ヘンリー・イートン陸軍長官夫人、マーガレット・オニール・イートンを認めることを拒否したペティコート事件(英語版)においては自分とイートンがまず辞任し、その後に他の全閣僚が辞任するという案を提議して事態の収拾に貢献した。この功績をジャクソン大統領に評価され、彼の後継者に指名されることになった。1832年に副大統領に指名され、ジャクソンが2期務めて引退すると前任のジャクソンに最も能力が近いということで、民主党の大統領候補として選出された。対抗する国民共和党はイギリスの同名の政党にあやかって「ホイッグ党」と命名したが、ウィリアム・ハリソン、ダニエル・ウェブスター、ヒュー・ホワイトと有力候補を乱立させたのが失敗となり、ヴァン・ビューレンが選挙人170を得て大統領に当選した。1837年に大統領に就任したが、同年の大恐慌など、在任中におきた数回の恐慌に対していずれも無策で目立った成果を上げられなかった。また、相当な贅沢好きも災いし人気を落とした。前任のジャクソン政権下で制定された強制移住法に従い、先住民から武力で土地を奪った。先住民の一族であるチェロキー族を故郷から1000キロ以上離れたオクラハマの原野に追い立てたが、その途上で老人・子供を中心に多くの死者が出たとされている。この施策に対するヴァン・ビューレンの議会における反応は「(移住策は)幸福な結果をもたらしました。チェロキーはいささかのためらいもなく移住した」というものであった。任期の終了後、ヴァン・ビューレンは故郷のキンダーフックへ戻り、ホワイトハウスへの復帰を考えた。彼は1844年の大統領選挙において候補氏名のアドバンテージを持つと考えられた。有名な1844年4月27日の手紙では、率直にテキサス州の併合に反対の意見を示しており、それは後に彼の敗北に寄与することになったのだが、指名を実際に確信するまで公にされなかった。民主党大会でヴァン・ビューレンは投票の多数を獲得したが、規定に定められた3分の2を得票できなかった。8度の投票の後に、ダーク・ホースのジェームズ・ポークが民主党大統領候補の指名を得た。1848年の大統領選挙では、ヴァン・ビューレンは2つの小政党によって指名された。最初は民主党員の党派によって結党された「バーンバーナー」によって、次に「自由土地党」によってであった。しかしながら選挙人団投票で勝利を得ることはなかった。1860年の選挙ではエイブラハム・リンカーンに反対する選挙人融合を支持した。しかしジェームズ・ブキャナン大統領の南北分裂に対する姿勢を支持できず、最終的にはリンカーンを支援した。ヴァン・ビューレンは1861年秋に肺炎で寝たきりとなり、1862年7月24日の午前2時にキンダーフックの自宅で気管支喘息と心不全により死去した。遺体はキンダーフック墓地に埋葬された。

アメリカ合衆国で国務長官・副大統領・大統領の要職を全て経験したことのある人は、二人しかいません。一人はトーマス・ジェファーソン、もう一人がこの人マーティン・ヴァン・ビューレンです。また、現職の副大統領として臨んだ大統領選で当選を果たした大統領は、このヴァン・ビューレンの後は1988年のジョージ・H・W・ブッシュまで148年間現れませんでした。他にも彼は第一言語が英語ではなくオランダ語だった、唯一のアメリカ合衆国大統領という変わった記録も持っています。ビューレンの人生は彼が最初の主催者の一人でもあった民主党抜きでは語ることが出来ません。民主党は、合衆国における現存最古の政党であり、また草の根運動による政党としても世界最古とされている政党で、発足当初は南部を中心とした勢力を支持基盤に持ち、南部の農場主等の権益の擁護を中心とした政策を目指していました。1828年の大統領選挙で、1828年の大統領選挙で積極的に各州に強い政治組織を形成して、アンドリュー・ジャクソンを圧勝に導きました。ビューレンはニューヨーク州におけるジャクソニアン・デモクラシーの組織構造を築き上げました。ジャクソン支持者は資産階級よりもあらゆる白人男性に参政権を与えることを信奉し、エリートや貴族、合衆国銀行に反対しました。1836年の大統領選挙ではジャクソンの副大統領だったビューレンが民主党の候補として指名され、勝利しました。しかし、彼は運のない大統領で、まず1837年の恐慌に翻弄されました。ビューレンは就任が恐慌のわずか5週間前であったにも関わらず、恐慌について大きく非難され、ビューレンが政府の介入を拒否すると、彼の政敵により更に恐慌を長引かせ、被害を広げることになったとされてしまいました。さらに、イギリス領北アメリカとメイン州の国境を巡って、アメリカ合衆国とイギリス帝国の間で、アルーストック戦争が起こりました。アルーストック戦争は宣戦布告の無い(最終的には流血のない)対立だったのですが、メイン州とニューブランズウィック州で緊張関係が高く、論議が過熱しただけでなく、双方とも軍隊を起ち上げ、論争のあった境界に進軍したために戦争と呼ばれています。このような事件に見舞われたことは、彼の政策のせいだとは言い切れない部分がありますが、ビューレンは4年後の1840年の大統領選で敗退しました。ビューレンは大統領への返り咲きを試みましたが、民主党の指名を獲得できませんでした。ビューレンの最期は1862年7月24日の午前2時にキンダーフックの自宅で気管支喘息と心不全により亡くなりました。上記の最後の言葉のたった一つのよりどころが何なのかについては分かりませんでした。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I don't care if I live or die. Go ahead and kill me.

生きるか死ぬかなんて気にしない。さあ、殺せよ。

ジェフリー・ダーマーの最期の言葉。ジェフリー・ライオネル・ダーマー(Jeffrey Lionel Dahmer、1960年5月21日-1994年11月28日)は、アメリカ合衆国の連続殺人犯。ミルウォーキーの食人鬼との異名を取る。1978年から1991年にかけて、主にオハイオ州やウィスコンシン州で17人の青少年を絞殺し、その後に屍姦、死体切断、人肉食を行った。その突出した残虐行為は、1990年代初頭の全米を震撼させた。またこの事件では、ミルウォーキー警察当局の無能と、人種的および性的マイノリティに対する偏見がダーマーの蛮行を許したとして厳しく非難されることになった。1960年5月21日、ジェフリー・ダーマーはミルウォーキーで、父ライオネルと母ジョイスのダーマー夫妻の長男として生まれた。4歳になるころ、ジェフリーはオハイオ州アクロンに引っ越す。父親のライオネルは当時、マーケット大学で電子工学を学ぶ学生で、生活は不安定だった。このため、夫妻はウィスコンシン州ウェストアリスにあるライオネルの実家に身を寄せていたが、母親のジョイスは情緒不安定気味で、妊娠中は激しいつわりに悩まされ、医師からバルビツールやモルヒネなどの投与を受け、妊娠中にもかかわらず一日あたり26錠の錠剤を服用していた。ジェフリー出産後も彼女の精神状態はひどくなる一方で、ささいなことで夫と衝突を繰り返し、次第に夫婦仲は険悪なものとなっていく。その後、分析化学で博士号を取得したライオネルは、化学企業の研究員として就職、仕事の都合で一家は各地を転々とするようになった。次男となるデイヴィッドを身ごもった時も薬物依存に陥り、ほとんど寝たきりになってしまっていた。精神状態が悪化してかんしゃくを起こす母親と、研究にかまけて家庭を顧みなかった父親との間で幼いジェフリーは、精神的な安定を欠いた少年として成長することになる。ジェフリーが6歳の時、ジョイスが次男を出産する準備に入ると、ジェフリーは1日中ぼさっと座って動かなくなるという不思議な行為を見せる。彼は幼少時からほとんど笑わなかった。8歳のころに、小学校の同級生から性的な虐待を受けている。この時、双方の両親が話し合い、今回は警察には不問ということになった。学校時代には物静かでふさぎこみがちな一匹狼として知られ、一人で森をぶらぶらして過ごすことが多かった。父から昆虫採集用の科学薬品セットをもらったジェフリーは夢中になり、猫や鼠の骨をホルマリンの瓶に採集して回った。小動物の死骸を強酸で溶かし、白い骨を取り出すのが面白く、事故で死んだ動物の死骸を集めて回ったという。犬や猫のほかに、シマリスやアライグマ、さらにはゴキブリやクモのような虫の死体も集め、それらの死体をホルマリン入りの瓶に詰めて保存していた。死んだ動物の首を木の枝に突き刺すという行為も行っている、ジェフリーは多くの連続殺人犯とは違い、生きた小動物や昆虫に対する虐待は行わなかったが彼自身のネクロフィリアの兆候はここに始まっていた。バス・タウンシップのリビア高校に入ると、知能指数の高さで注目された(IQ145を示した)が、情緒不安定と集中力の欠如から成績はまったく振るわず、授業中にヤギの声真似をして鳴いて授業妨害をしたり、知恵遅れの子供の物真似をしたり、挙げ句の果てにスーパーマーケットで試食品のアルファルファをかじり、アレルギー発作の真似をして騒動を起こすなど、趣味の悪い悪戯を繰り返す問題児として評判は芳しくなかった。両親の不仲は年々悪化した。ジェフリーが高校生になった頃には、家の中をロープで二分して住み分けるまでになっていた。ジェフリーはますます内気になり空想を膨らましていった。ピッツバーグのPPGインダストリアルの科学者として働いていた父ライオネルは、「耐えがたい虐待と、完全な義務の放棄」という理由で提訴されていた。翌年の7月24日、サミット郡裁判所のリチャード裁判官は、「これ以上、2人が夫婦であり続けることは難しい」として、母ジョイスに、ジェフリーの弟デイヴィッドの引き取りを許可し、1978年に協議離婚が成立した。父ライオネルは姿を消し、母は弟を連れて出て行った。母はジェフリーも連れて出ようとしたが、彼は無反応であったと言われる。当時18歳のジェフリーは「成人」と見なされ、裁判所も両親も、ジェフリーのことについてはまったく触れないまま姿を消した。実質的に、ジェフリーは見捨てられたのであった。1978年、ジェフリーは高校卒業を控えていたが、離婚を巡り家庭裁判所で泥仕合を続けていた両親は、それぞれに家を出て別居しており(弟は母親の元に引き取られていた)、家には彼一人だけが取り残されていた。この頃に自分が同性愛者であることに気付き、その苦悩と孤独を紛らわせるため、アルコールに逃避することも覚えていた。高校在学中に、登校前に酒を飲んだことで教師から叱責を受けたり、ロッカーからジンのボトルが発見されたことで停学処分を受けたこともあった。高校卒業を孤独のうちに迎えたジェフリーは、その数日後、町外れでロックコンサート帰りの19歳のスティーブン・ヒックスというヒッチハイカーを拾った。音楽の趣味が合い、また彼好みのタイプだったことから、酒とマリファナで自宅へ誘った。両親が離婚して以来、空き家となっていた自宅にヒックスを連れ込み、住んでいたころの思い出を語り聞かせた。ダーマーは、人と打ち解けることの喜びを初めて味わったが、彼が父親の誕生日祝のために帰宅すると言い出した。彼を帰したくないダーマーは、手近にあったダンベルでヒックスを背後から殴って、気を失ったところを絞殺。死体の衣服をはぎ取って肛門を犯し、ナイフで腹部を切り裂くと、鮮血をすくって体に浴びた。その内臓を床に広げて血だらけにし、その上を転がって遊んだ。その後死体を床下へ運び込み、バラバラに解体した。しばらくは手元においていたが、腐敗しだしたため、首以外の部分はゴミ袋に詰めて近くの森に埋めた。これが、ジェフリー・ダーマーの初めての殺人である。この殺人は衝動的なものであり、長くダーマーのトラウマとなることとなった。この事件以後、彼はますますアルコールに依存することとなる。彼は逮捕後、この事件を「もっとも思い出したくない出来事」として語っている。その後、再婚した2番目の妻、シャリを伴って帰宅したライオネルの勧めで、ダーマーはオハイオ州立大学へ進学する。経営学を専攻したものの、重度のアルコール依存症に陥っていたダーマーは授業をまともに受けられる身ではなかった。大学での彼の日常は講義に出席する代わりに、飲み代を稼ぐために血液銀行で売血し、その金で大学の寮の自室で浴びるように酒を飲むというものだった。結局、1学期終了と同時に大学から退学勧告を受けた。その後、アメリカ陸軍への入隊手続きをとったダーマーは、アラバマ州のフォート・マクレラン基地に配属となり、憲兵になるための訓練を受けるが挫折。テキサス州サンアントニオのフォート・サム・ヒューストン基地に転属を命ぜられ、そこで新たに衛生兵としての訓練を受ける。訓練が終了すると、旧西ドイツのバウムホルダーにある、駐独アメリカ軍第8歩兵師団68連隊第2大隊に配属された。入隊当初は勤務成績も良く、順調に昇進もしていたが、ドイツ勤務となり基地内の免税店で酒が安く買えるようになると再び酒浸りの日々を送るようになり、任務がこなせなくなったため、1981年に兵役満了を待たずして除隊となったが、陸軍はダーマーの将来に配慮して不名誉除隊にはせず、健康上の理由による名誉除隊とした。なお、ドイツ駐留時代、バウムホルダー基地周辺で5件の未解決殺人事件(被害者のうち一人は女性)が発生している。ダーマーはこれについて自白しておらず、犯人も不明のままだが、その手口からダーマーの犯行だとする声が根強く残っている。陸軍除隊後、ダーマーはフロリダのリゾート地で日銭仕事をしながらぶらぶらしていたが、やがてライオネルに帰郷するための交通費を無心してオハイオへ舞い戻り、祖母の元に身を寄せることになる。ここでも相変わらず酒浸りの生活は改まることはなく、学生の時と同じように血液銀行で頻繁に売血を繰り返したためブラックリストに載せられたり、バーで問題を起こしては警察の世話になったりしていたが、その一方、経済的な安定を得るためにミルウォーキーのアンブロシア・チョコレート社の工場作業員として就職し、家族を安心させるという面も見せた。就職してほどなく、ミルウォーキーのゲイバーやクラブに通うようになったが、そこでも無愛想で孤独な一匹狼、という評判が立った。ダーマーは目をつけた男に睡眠薬を混ぜた酒を飲ませるようになったが、暴行目的というよりは薬の量や薬効を調べるための実験に近かった。しかし、ある日、「クラブ・バス・ミルウォーキー」という店で飲み仲間の一人が意識を失って病院へ担ぎ込まれたため、同店から出入り禁止を言い渡され、それから間もない1986年9月8日、12歳の少年ふたりにマスターベーションを見せたとして、1年間の保護観察処分を言い渡された。1987年9月15日、保護観察期間が終わったばかりのダーマーは、ゲイバー「クラブ219」でダイナーの見習いコックである24歳の白人青年と出会い、ホテルで一夜をともにした。ところが翌朝、目が覚めると青年は口から血を流して死んでいた。のちのダーマーの供述ではこのとき泥酔しており、一切の記憶はなく、ショックに打ちのめされたとしている。自分が絞殺したことは間違いなかったため、事態を打開するため、クローゼットに死体を隠すと、大急ぎでスーツケースを購入、ホテルに戻って死体を詰めこむと、タクシーで祖母の家へ戻り、地下室で解体。いくつかのビニール袋に分けてゴミ収集場所に出した。ダーマーの手際があまりにもよかったため、物証を得られなかった警察は、この事件については告発を断念している。1988年1月16日、「クラブ219」近くのバス停でインディアンの血を引く少年に目をつけると、ビデオのモデルのアルバイトをしないかと持ちかけて、祖母の家に連れ込んだ。そこで睡眠薬入りの飲み物を飲ませて絞殺。解体したあとは酸で肉を溶かし、骨を砕いて周辺にばらまいた。3月24日、「フェニックス」というゲイバーでヒスパニック系の青年を、やはりモデルにならないかと口説いて祖母の家に連れ込み、同様の手口で殺害している。以後、飲み物に溶かした睡眠薬で眠らせて殺害し、遺体を解体するというダーマーのルーティンワークが確立した。ただ、このころになると、地下から漂ってくる異臭に、祖母はいいかげん耐えられなくなっていた。ライオネルに電話し、地下室を調べさせたところ、どす黒い血だまりのようなものをみつけてダーマーを問い詰めたが、子供のときのように、動物の死骸を酸で溶かしていたと弁解するばかりだった。しかし、そろそろ一人立ちさせる頃合だと思ったライオネルは、ダーマーに独立を促した。1988年9月25日、ミルウォーキーの北24番街808番地のアパートに引っ越したダーマーは、引っ越してから24時間も経たないうちに問題を起こしてしまった。翌日、ラオス人少年を自室に連れこみ、睡眠薬を飲ませたのだ。しかし少年はなんとか逃げ出して警察に駆けこみ、ダーマーは未成年に対する性的暴行のかどで逮捕、1週間拘置された後、保釈金を積んで仮釈放となった。ダーマーの早期仮釈放申請について、父ライオネルは、治療プログラム終了前の息子の釈放に反対する手紙を書いたにも関わらず、ダーマーは釈放されたのであった。4ヶ月後の1989年1月30日、ダーマーは少年に対する性的暴行の罪で有罪判決を受けたが、判決公判が4ヶ月後に開かれることになった。判決日を待っていた3月25日、ゲイバー通いを再開していた彼は、レストランのマネージャーを務める26歳のハンサムな黒人青年と知り合った。祖母の家に連れ込むと、睡眠薬入りの飲み物、絞殺、解体、ゴミ袋に詰めるという陰惨なルーティンワークがいつものように繰り返された。祖母の家で犯行に及んだのは、警察が自分のアパートを監視していると思い込んだからである。このときダーマーは、記念に頭蓋骨を取っておくことにした。5月23日、判事はダーマーに1年間の刑務所外労働と5年間の保護観察処分を言い渡した。この寛大な判決により、ダーマーは日中は勤務先で働き、夜や週末は刑務所で過ごすことになった。1990年3月、ダーマーは仮釈放となり、新たに北25番街924号にあるアパートに居を構える。ここはミルウォーキー有数のスラム街である。のちに、「ザ・シュライン・オヴ・ジェフリー・ダーマー(ジェフリー・ダーマーの神殿)」として犯罪史に不朽の名を残すこととなるオックスフォード・アパートメント213号室である。新居に移って間もない5月、ダーマーは犯行を再開する。犠牲になったのはイリノイ州の刑務所を出所して間もない青年だった。6月24日にはイスラム風に頭にターバンを巻いた、「シャリフ」という愛称で親しまれたゲイの青年がダーマーのルーティンワークの素材になった。7月にヒスパニック系の少年に手を出して失敗、危うく殺人が発覚しそうになったため、約2ヶ月の自粛期間を置いて9月3日に行なわれた殺人は、ダーマーの犯行に新機軸を打ちたてることとなる。ミルウォーキーの本屋の前で出会ったダンサーの黒人青年は、ダーマー好みの筋肉質なハンサムな男だった。いつもの手際でアパートへ連れ込み、睡眠薬を与えると2ヶ月間封印した破壊衝動を押さえきれなかったのか、喉を掻き切った。そして、いつものように解体しただけでは飽き足らず、食人行為におよんだのである。さらに2週間後、行き当たりばったりで拾った23歳の黒人青年も、ダンサーと同じ運命をたどった。1991年2月18日、19歳の黒人青年がダーマーのルーティンワークの材料になる。さらに2ヶ月後の4月7日、やはり19歳の黒人青年をオックスフォード・アパートメント213号室へ招待したが、このときはロボトミー手術を施そうとしている。動機は殺して写真と死体の一部を残してもさみしさだけが募るから、それよりは自分の言いなりになる理想の恋人を自分の手で作り出そうというものだった。しかし、頭蓋骨に穴をあけて塩酸を流し込むというおぞましい手術は失敗に終わり、結局いつものルーティンワークに立ち戻っている。5月24日には31歳の聾唖者がオックスフォード・アパートメント213号室に消えたが、それから数日と経たないうちに、14歳のラオス人少年を毒牙にかける。このときはいつもの手順を踏まず、彼に睡眠薬を飲ませて性的暴行を加えた後、再びロボトミー手術を試みている。その後、少年はダーマーがビールを買いに出かけたすきをねらって脱走したが、意識がもうろうとしていたため全裸のままアパートのそばでへたり込んでしまい、一時はアパート周辺は騒然となった。しかし、駆け付けた警官がダーマーの、これは恋人同士の痴話喧嘩だというそつのない説明を信用して引き上げてしまったため、少年は助からなかった。6月30日、シカゴでおこなわれたゲイ・プライド・パレード見物に訪れたダーマーは、そこで新たな犠牲者を誘った。それから5日後には再びシカゴを訪れ、23歳の黒人青年をミルウォーキーのオックスフォード・アパートメント213号室に誘った。このとき、青年の友人はダーマーの誘いを受けるべきかどうか相談されて、「行けよ。彼、まともそうな感じじゃないか」と答えたが、後にこの友人は後悔の念をにじませながら、「連続殺人者が、どんな顔か知っている奴なんかいないよ」と語っている。7月15日、ダーマーは6年間勤務したアンブロシア・チョコレート社を解雇された。理由は頻繁な欠勤と遅刻、それにともなう勤務成績の急激な悪化だった。また、家賃の滞納が続いたため、7月いっぱいで部屋の立ち退きを迫られていた。このころになると、もはや普通の人としての仮面をかぶり続けることすら不可能になりつつあった。犯行も終盤を迎えると、かなり行き当たりばったりに犠牲者を手にかけるようになり、ただでさえ手狭な部屋はこれまで手にかけてきた犠牲者のバラバラ死体であふれかえり、異臭はもはやアパート全体を覆いつくすほどだった。解雇通知を受け取ったダーマーは、その日のうちに24歳のトラック運転手に声をかけ、いつも通りの仕事をしている。7月19日、ミネソタ州から仕事を探すためにミルウォーキーを訪れていた失業中の白人青年をオックスフォード・アパートメント213号室へ招待した。17人目の犠牲者だった。1991年7月22日午後11時30分。北25番街を定時巡回していたラルフ・ミュラー巡査とロバート・ロース巡査は、「助けて!」という悲鳴を聞きつけ、すぐさまパトカーを急停車させると、前方から左手首に手錠をぶら下げた黒人の男がパトカーの方に走ってきた。男は、近所のアパートに住む頭のおかしい白人の男に殺されかけたと訴え、ふたりは半信半疑ながら、男の案内でそのアパート──オックスフォード・アパートメントへ向かった。問題の男の住む213号室のベルを鳴らすと、ブロンドのハンサムな白人青年が顔を出した。男は礼儀正しく警官に応対したが、背後から強烈な悪臭が漂いだし、さらによく見るとアルコール依存症特有の症状が出ていた。男はジェフリー・ダーマーと名乗り、失業したばかりで酒を飲んだくれていたことや、悪ふざけで手錠をかけたことを申し訳なさそうに話した。警官が手錠の鍵を部屋に取りに行こうとすると、何かを思い出したように捜査を拒絶し激しく暴れ出したため、その場で手錠をかけられた。巡査の一人がダーマーの前科照会をおこなったところ、1989年に少年に対する性的暴行のかどで有罪判決を受け、5年間の保護観察下に置かれていたことが判明した。直ちに部屋の中を捜索すると、黒人青年の手錠の鍵とともに、大量のバラバラ死体のポラロイド写真が発見された。さらに冷蔵庫から肉片や内臓などを入れたビニール袋、切断された複数の頭部が発見された。その後の家宅捜索で、容量260リットルのポリ容器からは酸で溶解された3人分の胴体をはじめ、着色された頭蓋骨が複数、キッチンの鍋からは切断された手が数本と男性器が1本発見された。床には引きはがされた皮膚や切断した指などが無造作に捨てられていた。また、被害者のものと見られる運転免許証や社会保障カードなどの身分証明書のほか、死体の解体に使われたチェーンソーや解剖器具などが押収された。検死官が最終的にまとめた報告書によれば、発見された人体は全部で11人分だった。また、捜索にあたった刑事たちの何人かは黄色い防護服に身を包み、防毒マスクをつけたまま捜索と証拠物件の押収に当たった。凄惨さを極めた部屋の家宅捜索では、数々の犯行現場に立ち会った刑事の中にすら気分を悪くする者がいたり、中でも人肉がぎっしり詰まった冷蔵庫が運び出されたときはあまりの悪臭に周囲の野次馬が後ずさりし、嘔吐するほどだったという。1992年1月27日から2月15日にかけて、ジェフリー・ダーマーの公判がセイフティ・ビルディング5階の法廷で開かれた。容疑事実は既にダーマーが認めていたため、弁護側は精神異常による無罪を申し立てた。しかし、1992年2月15日、陪審は10対2の過半数で弁護側の主張を退け、オハイオ州でおこなわれた最初の殺人事件と、告発を断念した2件目の殺人事件を除く15件の殺人事件について有罪を評決した。2月17日、ローレンス・グラム判事は15件の殺人事件に対して、累計で936年の禁固刑に相当する終身刑を宣告した。ダーマーは死刑を望んでいたが、ウィスコンシン州では1853年に死刑制度が廃止されていたため、その望みはかなわなかった。のちに、死刑存置州であるオハイオ州で行われた裁判でも終身刑が宣告されている。1994年11月28日、ウィスコンシン州ポーテージにあるコロンビア連邦刑務所のシャワールームで、黒人収容者クリストファー・J・スカーヴァーに撲殺された。ダーマー、スカーヴァーともう1人の囚人でシャワールームを清掃する職務に従事していたとき、スカーヴァーはトレーニングルームより持ち出したベンチプレスの鉄棒で2人を殴打した。まもなくスカーヴァーは看守に逮捕され、ただちにダーマーは救急車で病院へ搬送されたが、搬送中に死亡が確認された。スカーヴァーは、自分は「神の息子」で、「父」から2人を殺すよう命令され、信用できる相手とできない相手とを教えてくれたと供述しているが、スカーヴァーもまた有罪となった。しかし、人種の隔たりがこのような事態を引き起こしたとも考えられている。父のライオネルは、息子の事例研究には協力的であった。しかしジェフリーの死後、科学捜査のために彼の遺骸を解剖することに対して同意拒否をした。宗教的な理由によるものであった。

Milwaukee Cannibal(ミルウォーキーの食人鬼)ことジェフリー・ダーマーは、人類史上最悪の大量殺人犯の一人です。彼の犯行は17人の青少年を絞殺し、その後に屍姦、死体切断、人肉食を行ったという、極めて凶悪なものでした。大抵の凶悪殺人犯の例にもれず、ダーマーも不幸な少年時代を送りました。その後、彼は凄惨を極めた犯行を行うのですが、最後は逮捕され事件の全貌が明らかにされました。『FBI心理分析官 ~異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記~』の著者で、元FBI捜査官であり司法行動学研究所(FBS)所長であるロバート・K・レスラーは、ダーマーと対談しプロファイリングしました。レスラーはダーマーを秩序型にも無秩序型にも当てはまらない、「混合型」の殺人者であると見なし、「精神異常」を理由として、裁判では情状酌量の余地があり、刑務所ではなく精神病院に収容すべきだと考えました。裁判では弁護側は精神異常による無罪を申し立てましたが、累計で936年の禁固刑に相当する終身刑が宣告されました。ダーマーは死刑を望んでいましたが、ウィスコンシン州では1853年に死刑制度が廃止されていたため、その望みは叶いませんでした。さて、この凶悪殺人犯の最期は、1994年11月28日、ウィスコンシン州ポーテージにあるコロンビア連邦刑務所のシャワールームで、黒人収容者クリストファー・J・スカーヴァーに撲殺されるというものでした。ダーマー、スカーヴァーともう1人の囚人でシャワールームを清掃する職務に従事していたとき、スカーヴァーはトレーニングルームより持ち出したベンチプレスの鉄棒で2人を殴打し、ダーマーは病院に搬送中に死亡しました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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